表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

257/257

あとがき

 あとがきである。

 なろうでは続けたままの方が優位というのがなかがき時の情勢だったのだが、昨今では完結した方が有利という情勢に変わったので、完結させる事にした。

 とはいえ、そのまま終わらせるとして語る事もないのは悪いので、みんなが知りたがったその後の話をサイコロででっち上げる事にした。

 対毛利戦終結後、吉岡長増、臼杵鑑速、吉弘鑑理の死による世代交代が発生。

 更に、宗麟隠居という形で家督を大友義統に譲る事で世代交代をアピールするが、実権は握ったままで加判衆よりも宗麟側近の力が強くなる。

 とはいえ、八郎自身は伊予半国守護代としてこの動きから離れる事で四国から動く事はせずに、肥後問題でくすぶっていた対島津戦を傍観する。

 対島津戦は竜造寺家が狙っていた天草と、大友家側の阿蘇家と島津家に降伏した相良家の代理戦争という形で発火。

 肥後国響ケ原で大友・阿蘇・竜造寺連合軍三万と島津・相良連合軍一万五千が激突。

 島津軍によって多くの被害を受けながら、甲斐宗運の活躍で島津・相良連合軍を退ける事に成功。

 翌年、肥後国且過瀬の合戦でも四万の兵で島津軍一万を退けるが、決定的勝利を得る事はできなかった。

 一方、日向国では島津家に攻め込まれた伊東家の救援という形で大友家は介入に踏み切るが、肥後戦線を抱えていた島津家にその余力はなく、日向国高城川の合戦で大友軍一万二千が島津軍六千を相手に勝利を収め幕府と朝廷を交えた講和を結ぶ事に成功する。

 八郎は日向国に水軍を送って支援するだけでなく、幕府や朝廷への使者として動き大友家をサポートするが、その権勢は尼子新宮党に匹敵すると大友家領内で噂されるようになり、九州の領地を猫城周辺を除いてほぼ手放す事を決意。

 この動きに八郎を利用して更なる勢力拡大を企んでいた竜造寺隆信は大友家中で八郎に恩を売る形で八郎の九州領地の半分以上を手に入れた上に、八郎・大友宗麟・大友義統の関係を破壊する為に更なる謀略の糸をめぐらす。

 致命的だったのが大友宗麟のキリスト教への傾倒で、これが家臣団分裂を引き起こした上に加判衆と側近の対立の発火点となり衝突が発生。

 側近衆の奈多鎮基と田原親賢と佐伯惟教が戸次鑑連によって粛清。

 大友宗麟の実権が剥奪され、大友義統と加判衆が大友家を掌握するが、それは八郎が九州に来たら粛正される事を意味しており、この動きを静観せざるを得なかった。

 動揺する大友家中を見逃すわけがなく竜造寺隆信が島津家と連携をとりながら謀反を起こし独立するが、竜造寺隆信も島津義久も互いが互いを信用しておらず、肥後国の領有を巡って吉次峠にて合戦が発生。

 肥後国人衆を味方につけた島津義弘と家久率いる島津軍八千が竜造寺軍二万を相手に奇襲を敢行。竜造寺軍は総崩れとなって竜造寺隆信を討ち取られる大敗を喫するが、鍋島直茂が差配する竜造寺家の助命に奔走したのが、九州に行けないが大友家に金と米と兵を送り続けていた八郎だった。

 島津家は薩摩・大隅・南肥後を勢力圏にするが、日向国伊東家とは衝突が続いており、伊東家を支援する大友家とは冷戦状態という形に収まる事になる。


 そのころ中央では石山本願寺と幕府副将軍織田信長の戦いが発生。

 更に擁立した将軍足利義昭との関係も悪化するが、八郎の進言で織田信長側についた阿波・讃岐・淡路の守護大名となった三好義興の支援もあって畿内の安定化に成功。

 武田家と今川家を滅ぼし、上杉家を越後一国にまで追い詰めた所で、懸念材料だった西国征服に手をつけると同時に足利義昭を追放。

 斯波家養子として家督を継承していた織田信長ならぬ斯波信長はこれを持って第十六代将軍に就任足利義長と名乗るが、明白な簒奪に諸大名だけでなく家中も動揺。

 荒木村重と松永久秀の謀反に始まり、佐久間信盛追放でその動揺は頂点に達し、織田信長を本能寺で討ったのは一度は許された浅井長政だったという。

 この本能寺の変の後の織田家の後継者争いは、浅井長政を討った明智光秀と羽柴秀吉対滝川一益対柴田勝家の衝突に発展。

 明智光秀が暗殺されると羽柴秀吉が西国に逃亡。

 その後実権を握った滝川一益が賤ヶ岳の戦いで敗北し滅亡すると柴田勝家の天下かと思われたが、八郎および三好・長曾我部・毛利の支援で堺に上がった羽柴秀吉と徳川家康に挟撃され岐阜城にて自害。

 京の人脈を握っていた八郎及び三好義興の活躍により、羽柴秀吉が天下人として覇道を継承する事になる。豊臣秀吉である。

 八郎はその功績に対する報酬を辞退し続けたが許される訳もなく、官位は権大納言に上がり、伊予一国に紀伊国、更に九州の旧領が返還され、百万石を超える大名として豊臣政権の大老として重きをなす。この時代大友亜相、伊予大納言と呼ばれ、居城は宇和島から松山に移して城下町の発展に尽くす。特に道後温泉の発展に尽力し西国の湯治場として有名になる。

 息子新八郎に秀吉の娘輝夜姫を嫁がせ一門としても扱われた彼は、朝鮮出兵に反対し海外交易と重商主義に舵を切り、その政権基盤の弱かった豊臣家を支え続けた。

 1610年死去。

 秀吉の死後、豊臣家から天下が徳川家に流れるように差配したのも彼であり、豊臣家が摂関家として京にて生き残れたのも彼のおかげである。

 遺領の内、九州の領地は大友家に返還後大友家が江戸幕府に返上。

 大友家本家は豊後・筑後七十万石の大名として存続する事になる。

 紀伊の領地は八郎の娘と結婚した羽柴秀康こと徳川秀康に譲り、御四家の一つとして存続。

 伊予国も返上し、筑前国猫城一万石の大名として過ごすようにという遺言は見事に守られる訳もなく、伊予国三十五万石の大名として存続する事になった。


 幕府は豊臣家以上と噂されたその莫大な富を天下普請にて削ろうとしたが、類まれな商才を父から受け継いだ新八郎こと大友家成は惜しげもなくその富をつぎ込んだ上にそれ以上の商業利権を握った結果西国での声望が決定的になり、潰すより取り込んだ方が得策と幕府に判断され以後将軍の娘が続々と正室に送られる事になる。

 その結果、幕末はギリギリまで忠実な幕府大名として振舞うが、その声望を欲した反幕府勢力の勃興にはしっかりと支援をしていた結果、幕末を乗り切ったという。

 維新後、侯爵家として華族になる。

実際に書くならもっと違う話になるだろうが、こんな所で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
主人公が修羅の国の枷を脱して本格的な成り上がりに至る段があとがき記載で草 その間ずーっと綱渡り 作者さん、いい性癖だb
現代を生きた主人公にとって世界大戦で植民地にされない必須条件だと考えられる太平の世から明治維新は必須事項と考えられるから徳川幕府の設立に尽力するのはとてもわかる それはそうとここまで大々的に名を残すと…
久しぶりに来てみたらいつの間にか完結していた 一先ずお疲れさまでした この世界線の五大老は誰になるのだろう『八郎、徳川家康、三好義興、前田利家』は多分確定だとしてあと一人が毛利輝元になるのか上杉景…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ