冷水峠の血戦 その1
原田宿へ筑豊経由で向かう場合、ルートが3つある。
一つが冷水峠で、後の長崎街道のメインルートになるぐらいだから街道が比較的整備されているのが強みだ。
もう一つが米ノ山峠で、冷水峠の一つ北にある峠で冷水峠の複線みたいな考えをすればいい。
最後の一つが白坂峠で、このルートは秋月に抜ける大回りとなっている。
それぞれに、メリットとデメリットがある。
冷水峠はメインルートであるから通りやすいのだが、もちろんそれを毛利元就も高橋鑑種も知っているので待ち伏せを受けやすい。
米ノ山峠はサブルートだから警戒は緩いが、このルートの出口がよりにもよって高橋鑑種の居る宝満城の真下を通っている。
最後の白坂峠だが、秋月を統治している戸次鑑連の支援を受けられるから安全に越えられる可能性が高いが、いかんせん大回りになっている。
「で、だ。
とりあえず、今日中に飯塚宿までは着けるめどはついた」
日本における河川交通の凄さを思い知る。
河原者でも上位の連中になると船に住む連中もいて、そんな奴らから船を買い上げて俺たちは現在遠賀川を上っている訳だ。
戸口を覆った屋形の外で櫓を漕ぐ心地良い音色を立てている。
万一の襲撃を恐れて中に入っていろと押し込められ、熱いし暇だし一緒に乗っている有明とお色は例の恰好なのでという事で俺たち三人共何も身に着けていない。
散々喘ぎ声を聞いているだろう漕手の佐々木小次郎と薄田七左衛門には悪いが大名の仕事という事で諦めてもらおう。
なお、この船には大鶴宗秋と上泉信綱と果心と伝林坊頼慶が同乗しているが、何もいってこないのは諦めているのか、飽きられているのか。
「今の所は怪しい影はないですね」
外の果心がのんびりと呟く。
敵の警戒をしているのだが、男の娘こと井筒女之助は密命を授けて別の所を走らせている。
芦屋から飯塚までは途中木屋瀬の宿泊を入れて普通なら二日はかかるのに、この船ならば今日中に飯塚まで入れるのだ。
その無理の代償だが、身の回りの人間がたったこれだけ。
連れてきた兵達は猫城包囲もあるから、彼らが木屋瀬に入るのが二日後、飯塚に着くのが三日後となる。
そのために、残った兵のほとんどは柳川調信の差配で船で博多に送り、こっちには全員騎馬武者の馬廻のみが佐伯鎮忠の指揮の元こっちに向かってきている最中だった。
賢者タイム中なので適当に有明とお色を弄っていたら、外から声がかけられる。
「飯塚から先はどうなさいます?
内野宿の手前まではこれで行けるらしいですが?」
この状況で声をかけてくれる果心に俺は頭の中で地図を浮かべながら考える。
内野宿の手前という事は、冷水峠か米ノ山峠にしぼられる事を意味する。
リスクは、おそらく俺が考えている以上に高い。
「ここから先は、お前らを本当に置いていきたいんだけどなぁ……」
「八郎。怒るよ」
「そうですとも。
置いていかれるぐらいなら、殿方の前で散るというのが女の生き様というもの」
「……そこで別の男作って逃げますという選択肢が出ないのは何でだろうな……」
「西国一の長者を見捨てて、どんな男を作れと?」
容赦ないツッコミは外で風を読んでいる果心から来たので、夜にいじってやると決意してとりあえず有明とお色を指で黙らせる。
今一番欲しいのは時間だ。
そのために、俺は比較的安全ルートである白坂峠ルートを諦めた。
「内野宿の手前まではこれで行く。
そこから先は、飯塚宿についてから決めるさ」
その日は襲撃もなく飯塚宿に入る事ができた。
船宿を借りて宿泊していると客人がやってくる。
来たのは、由布惟信だった。
「彦山川の戦ぶりでございますな。八郎様」
「たしかにな。
戸次殿は元気にしているか?」
「はい。
先に届いた政千代様にやや子ができた文を見て大層お喜びに」
そういえば、やや子ができた報告は送った覚えがある。
こんな所でこういう縁に繋がるとは人生とは分からないものだ。
とはいえ、一応釘だけは刺しておこう。
「政千代は今、朽網鑑康殿の屋敷で休んでいるはずだ。
くれぐれも水をさすような事だけはしてくれるなよ」
「そのあたりはもちろん分かっておりますとも」
生まれてくる子を戸次家扱いにするのか、入田家扱いにするのかで今は揉めないという事で合意が成立する。
そして、話は生臭い方に移る。
「で、何でお前がここに居るんだ?」
「はっ。
元々はこの近くまで野盗や野伏が出た事による討伐が目的にて。
既に我が主君戸次鑑連様は手勢を率いて、高良大社におられるお屋形様の所に向かっております」
旧秋月領だった戸次家の領地の治安維持が目的だったらしい。
その為、治安維持と訓練を兼ねた兵三百を連れてきていたという天佑を知る。
そこで彼に毛利元就の陰謀とその襲撃計画を話すと顔が戦人のそれに変わる。
「その話、証明できる者は?」
「佐々木小次郎」
「はっ。
佐々木小次郎。参りましてございます」
控えていた佐々木小次郎を呼んで、今までの襲撃と毛利元就の計画の一部始終を由布惟信に言い放つ。
話を聞くに連れて由布惟信の手が刀に伸びようとしていたのを俺は内心ハラハラしながら見ていたのだが、ついに彼は刀を抜くことは無かった。
「八郎様。
なぜこやつを斬り捨てないので?」
「決まっているだろう。
斬り捨てようとしたら、返り討ちにあうからさ」
「ひどい言われよう。
ただ、己の剣を試したい一心にて」
茶化すように言うが、佐々木小次郎が中途半端に敵か味方かわからない時の方がこいつは怖かったのだ。
今は上泉信綱との試合したさにこちらについているのだから分かりやすい事この上ない。
由布惟信は俺たちのやり取りを無視して彼の持つ情報を開示する。
「このあたりを荒らしている野盗は知恵があるらしく、未だその影を捕まえる事ができておりませぬ。
どうも毛利の落ち武者が混じっているという話もあり、高橋家の兵と合同で事に当たろうかと」
「高橋家の兵が来ているのか?
兵数と大将は?」
食い気味で聞いてきた俺に由布惟信は少し驚き気味でその者の名前を告げた。
「たしか、帆足忠勝殿で兵数は三百。
野盗を領内に入れぬ為に米ノ山峠に陣取っておりますぞ」
懐かしい名前を聞いたと同時に、ゾクリと背筋が凍る。
この感覚は香春岳を巡る一連のやり取りを思い出さずにはいられない。
間違いなく、この野盗を率いているのは毛利元就だ。
そこまでして俺の首が欲しいかと俺は苦笑せずにはいられない。
「ここまで露骨に果たし状を突きつけてくれると笑うしか無いな」
俺の一言に佐々木小次郎と由布惟信が首をかしげる。
そういえば、知恵はあるが基本脳筋なんだよな。こいつら。
「毛利元就のお誘いだ。
冷水峠で果たし合いを所望致すとな」
これが毛利元就の執念と言うかもはや祟りの域である。
使える兵も将も限りなく引き離して、双方合わせてわずか数百の手勢での殴り合い。
多分歴史に残ることが無い小さな戦いにして、俺と毛利元就の本当の意味での血戦は静かにその幕を開けた。