裸蓑供養
彦山川合戦から十日後。
俺たちは豊前国簑島城にて休息と兵の再編を行っていた。
彦山川合戦の勝利はほぼ西日本全域に行き渡った訳で、その勝敗を見て各勢力が身の振り方を決めだしたのだ。
まずは門司城に入った大内輝弘だが、そこから動かずにじっくりと調略する道を選んだ。
そう誘導したのは俺と臼杵鑑速なのだが。
「今、周防長門に進撃しようにも船がありませぬよ」
簑島城の一室にて行われた評定で俺は大内輝弘を諌める。
それに軍監として田原親宏が追随する。
「左様。
姫島沖での船戦で多くの船が沈んで、我らは周防長門に大内殿を送る事すらできませぬ。
ここは門司城にて力を蓄えて頂きたく」
「言い分はわかったが、毛利が痛手を受けている今こそ機会では無いのか?」
大将という神輿である事を承知しつつ、与えられた門司城という餌も手放したくない大内輝弘の声には迷いが見える。
神輿である以上、スポンサーである大友家の意向は逆らえない事は理解しているらしい。
「既に毛利の将の幾人かが長門国に帰っております」
「何故だ!?
毛利にはもう船は無いはずだろう?」
俺の一声に大内輝弘が驚きの声をあげる。
彼からすれば、猫城の毛利軍は袋の鼠という認識だっただろうからだ。
「神屋です。
あの船は大友でも止められませぬ」
石見銀山から銀を運ぶ神屋の商船は大友家を持ってしても止められなかった。
博多の商業規模が東アジア的に無視できなくなった時点で、決済にも使われる銀の需要はうなぎのぼりになっており、神屋が完全に毛利家を切り捨てる事ができない原因となっていた。
たちが悪いのは、神屋の船の寄港地の一つが芦屋であり、そこから石見に向かうので門司城による封鎖がまったく役に立たないことだ。
猫城を保持する事と芦屋を保持する事が同義になると理解していた毛利には、この神屋の船での撤退は当初から考えられていたらしく、彦山川合戦から四日後には毛利家重臣の内藤隆春の旗が且山城に翻っているのを門司城の兵が確認したという。
内藤隆春隊は彦山川合戦で退路確保の為に後方に居たので、損害も少なく切り抜けたのだろう。
このあたりの上手い負け方は負け戦をも知っている毛利元就ならではと言えよう。
「腹立たしいな」
神屋の二股的動きに大内輝弘で怒りの声を漏らすが、その怒りの声は三方に乗せられた豆銀の山によってそれ以上は出ることは無かった。
こういう事をやってくれるから神屋を始めとした大商人達は生き残ってこれたのである。
「その神屋からの戦勝祝兼大内家復興祝でございます。
お受け取りくださりませ」
淡々と言う臼杵鑑速の声に俺は苦笑を押し殺す。
もちろん、俺達にもこの手の賄賂がたっぷりとやってきていたからだ。
彦山川合戦の勝利祝だけでなく、博多を戦火から守ってほしいという下心が見え見えである。
三方を横に置きながら、大内輝弘が俺を睨む。
「一つ確認したい。
俺が大内家を継いでいいのか?」
「それは、大内殿が自力で山口を落としてからの話になりましょう。
少なくとも、それがしが抱えている大内義胤は伊予国半国守護について伊予国に下っております。
大内殿が山口を落とし、それを維持しえるのならば、幕府も大内殿の威光を認めざるを得ないでしょう」
彦山川合戦の敗北と高橋鑑種の押し込めという家中クーデターの結果、九州の親毛利勢力は壊滅的打撃を受ける事が確定している。
博多奪還を戦略目的に掲げている大友家にとってはこれ以上毛利と戦う必要がないという事で、門司城を大内輝弘に渡したのはある種の手切れ金の側面もあったからである。
史実では有る種の使い捨てに終わったので警告は出しておこう。
「お好きになさればよろしい。
毛利につかぬ限り、今の大内殿は自由に振る舞えますぞ」
皮肉たっぷりに俺がそれを伝えると、それがわかった大内輝弘は同じような顔で俺に返答する。
「それは嬉しいですな。
それがしも八郎殿みたいに好き勝手に振る舞って、国を切り取ってみせよう」
俺が大内義胤を抱え込んでいる以上仲良くとは行かないのは分かっているので、ここは適度な警戒心と敵意を売ることにする。
これをやっておかないと、伊予にいる大内義胤の家臣連中が『切り捨てられる』と警戒するからだ。
政治の、派閥争いのなんと面倒なことか。
まぁ、大内輝弘が入城した後にこっちへ届いた船便で驚愕のニュースが飛び込んできて、彼の周防長門進攻作戦は頓挫する事になるのだが。
「毛利義元に西国探題任命かぁ……あの公方様にこんな政治的寝技が使えるとは思わなかった……」
簑島城の見張り台の上から周防灘を眺めつつ俺はぼやく。
この城は海岸線近くの島を城にしたもので、その島の上に立つ見張り台からは大友軍の陣幕と大友軍を運んだ船が見えていた。
畿内の政局を完全に無視していたつけがここに出た訳だが、働いたのはあの安国寺恵瓊だという。
西国探題、正式には周防長門探題というものなのだが、元寇の後に作られた歴史のあるもので広範囲な裁判権、軍事指揮権を持つ職である。
室町幕府下でその権限は形骸化していったが、大友宗麟が九州探題を欲したように権威は未だ通じるものがある。
この時代、情報伝達の速度にラグがある事は何度も言ってきたが、毛利義元は本気で大友家と和議を行おうとしていたのだろう。
西国探題職を受けたという事は、大友宗麟と幕府役職では同格になると同時に、その職責が山陽道・山陰道全域に限定されるからだ。
しかも、そのストーリーがまた情けないことこの上ない。
宇喜多直家討伐で兵を進めていた幕府軍は播磨国の制圧に失敗し、その糊塗の為に毛利義元に西国探題職を与えて宇喜多直家の始末を任せて手を引いたというのだから。
足利義昭の野望である播磨領国化は、播磨守護家である赤松家の分裂につけ込んで、赤松政秀と組んで赤松義祐を攻めたまでは良かったのだ。
赤松義祐の重臣に小寺政職がおり、その一門になっていた小寺官兵衛こと小寺孝隆なんてチートが居なければ。
まだ足利義昭自身が出陣すれば違ったのだろうが、公方様御自ら出陣ともなると政治的にいろいろあるので京にて結果を待つしかなく、総大将が管領の細川昭元だけど彼は自国にならない播磨出兵は消極的であり、実際の指揮は細川藤孝と松永久秀に丸投げして同じく京で待機。
実質的な総大将として振る舞っていた相良頼貞は幕臣ではあるが軍勢を指揮するには格が足りず、兵も銭で雑賀衆や根来衆を雇っていただけだから、足元を見た細川藤孝と松永久秀が彼の指示に従う訳もなく、『うちの大将は細川昭元様なので』と越水城からまったく動かず。
赤松政秀も足利義昭に侍女を送って取り入ろうとした過去があるから、先に成り上がった相良頼貞の言うことを聞く気がなかったという指揮系統がバラバラだった事がこの悲劇に拍車をかけた。
小寺官兵衛は越水城まで出張っている細川軍は顔見世の張子の虎である事を見抜き、与えられたわずか数百の兵力でためらわず出撃。
名目上の先手・事実上の大将として出陣していた相良頼貞数千を英賀の地で撃破、返す刀で孤立した赤松政秀軍を青山・土器山にて撃破するという離れ業をやってのけたのである。
相良頼貞の不幸は、俺という手本を小寺官兵衛も知っていたという事を理解できなかった事だろう。
雑賀衆・根来衆を率いて戦をしていた小寺官兵衛は彼らの特性を良く知っていたし、海路からの進攻だとかならず兵を休ませるという事を理解していた。
で、俺の真似をしていた相良頼貞が酒と女を兵たちに振る舞って士気向上の宴の真っ只中に、小寺官兵衛が突っ込んで相良勢は総崩れ。
逃げ出す姿は、一の谷の平家もかくやと囃し立てられて、
「吾が宴 戦ごときで 下がらねと 音は聞こえん 海の都に」 (俺の宴は戦ごときで中断しない 宴の音は海の都まで聞こえるだろう)
なんて戯れ歌まで流行する始末。
ちなみに、『吾が』は『あが』とも読むから『英賀』の掛詞。
『下がら』はもちろん『相良』の掛詞である。
ついでに言うと、海の都というのは壇ノ浦合戦での安徳天皇入水の際の二位の尼の台詞で門司城の眼の前。
多分、俺が門司城を奪ったあたりの情報は畿内に届いていたのだろう。
するとあら不思議。『英賀合戦の相良頼貞の負けっぷりは門司城を奪った大友鎮成にも聞こえるでしょうな』となる。
さすが畿内、皮肉も雅である。
多分こんないやみと雅を組み合わせた人間は越水城まで出ていたらしい細川藤孝か松永久秀のどちらかと思うのだが、詠み人まではこちらに届いていない。
多くの将兵を失った相良頼貞は何とか船で堺に逃げ帰り、越水城に居た細川軍はそのまま動くこともなく撤退。
敗走した赤松政秀軍を待っていたのはこのチャンスを逃すわけがない宇喜多直家の軍勢だった。
赤松政秀の首だけでなく、彼に匿われていたかつての宇喜多直家の主君である浦上宗景の首まで落とされ、ついに戦の大義名分そのものまで無くした足利義昭はその手仕舞いの為に安国寺恵瓊の手を借りねばならなくなったという訳だ。
西国探題に毛利義元を任命し、彼の担当地域にいる宇喜多直家の処分を任せるというロジックだ。
もちろん、宇喜多直家と毛利義元の間で最初から話がついており、宇喜多直家が毛利家に従属し人質を出す事で宇喜多直家の処分は終わり、この戦そのものは体面的には無事に終わることになった。
この播磨出陣の大失敗で足利義昭の権威は地に落ち、長島攻めの大敗と合わせて幕府体制の危機と思われていた所、副将軍だった織田信長が即座に手を打つ。
長島攻めで討ち死にした佐治信方の所に嫁いでいた織田信長の妹の一人であるお犬の方を管領細川昭元の嫁に送り、現在の幕府体制を維持することをアピールしたのである。
細川藤孝や松永久秀に実務を執り仕切られている傀儡とはいえ副将軍と管領が現将軍を見捨てない事で、畿内は最低限の秩序と安定が保たれた。
安国寺恵瓊はそんな畿内情勢を読み切って、毛利有利の外交的成果を引き出したのだ。
惜しむらくは、その成果が届く前に彦山川合戦の大敗と高橋鑑種の押し込めが毛利家を襲って、その成果を台無しにしてしまった所なのだが。
「はーちろーう!
これにーあーうー?」
考えにふけっていた所、見張り台の下から有明の声が聞こえる。
神屋をはじめとした博多商人達が俺への賄賂として持ってきた絹の反物である。
大陸商人がマカオに持ち込んだ物を南蛮船及び末次船などで博多に運んだ物で、この時代の日本では通貨としても通用していた。
彦山川合戦は勝ったには勝ったが、毛利元就無双でこちらの士気が折れてしまい、その再編にと思った所で俺たちは頭を抱える。
手っ取り早く銭や米を褒美として渡して士気を回復させたいのだが、その銭や米を蓄えていた香春岳城が毛利軍の間者による破壊工作で燃やされてしまっていたのである。
更に出費がかさむ。
毛利軍の落ち武者狩りに払う報酬に、壊乱時に消えた御陣女郎達の買い戻し。
感状を書くにも証文を書くにもとにかく数が多い。
で、士気低下中に支払い滞りなんて忠誠度低下確実なトラブルを避けたいので、最後の手段を取ることにしたのである。
「御陣女郎連中の着物を全部脱がせて売っぱらえ」
と。
陣幕を張って舞台を作り、侍足軽連中が見ている中で御陣女郎連中の扇情的な着物が脱げ落ちて生まれたままの姿になってゆく。
もちろん、その後は彼女達は商売という訳だ。
簑島城から銭と米が届く二日間、御陣女郎達の裸の献身が無ければ、落ち武者狩りや村人達に嬲られていた五十人ほどの御陣女郎達は助けることができなかっただろう。
簑島城までの二日間、彼女たちは人売りに売られた女よろしく裸で簑島城まで歩く羽目になり、さすがにそれはと手をつくして蓑だけは確保することに成功したのである。
反物を見せる有明も何も着ていない。
有明だけでなく、お色や果心やお蝶等の俺の女たちもストリップに参加したという訳だ。
だからこそ、有明は未だ御陣女郎達に『有明の姐さん』と慕われているのだろう。
薄田七左衛門を護衛に見張り台を降りて有明の所に行くと、そこには小さな墓が作られ花が供えられていた。
「反物が来たのだからさっさと服を着ればいいだろうに」
「その服を仕立てるのも時間がかかるのよ♪」
およそ四百人もの裸の女達の着物の用意なんてできるのは、博多か府内ぐらいしか無い。
こっちの窮状を察して恩を売りたい大商人達がこれを見逃すわけがなく、博多からは絹の反物九百反、府内からも九百枚もの毛織物が船で送られてきたことに笑ってしまう。
その多くを褒美として彼女たちに渡したまでは良かったが、布を着物にする為には裁断や縫製といった手間がかかるわけで。
まだまだ彼女たちの裸生活はしばらく続く事になる。
「墓か」
「あの戦で帰ってこなかった娘達のよ。
手を合わせてくれると嬉しいな。八郎」
そう言って手を合わせる有明の隣で、俺も有明の真似をして手を合わせた。
身よりも縁もない彼女たちだが、せめて俺や有明が覚えておこうと心に決める。
それが生き残った俺たちの務めだろうから。
気がつくと、線香の香りと共に、元山伏な薄田七左衛門が唱える経が聞こえてきた。
「ねぇ。八郎。
何時頃博多に行くの?」
手を合わせた仕草のまま有明が尋ねる。
手を合わせたまま俺は答える。
「もうしばらくはかかるな。
宇和島に帰したやつと来るやつが入れ替わるのにそれぐらい時間がかかる。
そこから猫城攻め、宗像攻めと続いて、博多だから一月は先だろうよ」
大合戦が終わった事で、雑賀衆と根来衆が帰還を申し出てきたのである。
御陣女郎の一部も稼ぎ終わったと言って帰りたいと申し出て、それを認めてやった。
また、討ち死にした内空閑鎮真や淡輪重利の兵達も故郷に帰してやるつもりだった。
諸将で交代を申し出たのは以下の通りである。
曾根宣高・城戸直盛・鹿子木鎮有・土居清良・桜井武蔵・如法寺親並
多くは兵の消耗が理由なのだが、居残り組と交代する事で功績の分散を狙うという土居清良や桜井武蔵の意見もあり、中々面白い。
如法寺親並は彼の主君である田原親宏がこちらに来ているので、彼の隊に合流するという。
豊前国や筑前国の将兵も帰しているので、現在俺直轄の兵はこんな感じである。
大友鎮成勢
大友鎮成・有明・果心・井筒女之助・柳生宗厳・石川五右衛門・薄田七左衛門・篠原長秀
佐伯鎮忠 二百 馬廻
大鶴宗秋 二百 大鶴鎮信 大鶴家郎党
上泉信綱 四百 雑兵
野崎綱吉 四百 雑兵
許斐氏則 四百 許斐家郎党+雑兵
御陣女郎 四百 田原お蝶・お色・政千代指揮
吉弘鎮理 三百 吉弘家郎党
小野鎮幸 三百 小野家郎党
白井胤治 三百 小野鎮幸指揮
合計 二千九百
この雑兵というのは、彦山川合戦の後で隊を離れて迷子になった連中で、まだ稼ぎたい輩の事である。
確実に居るだろうが、勝ち馬に乗り換えた毛利の足軽達もこの際と雇っている。
戦で荒れた場所で更に夜盗になんてなられると困るからだ。
で、宇和島から呼び寄せたのは彼らである。
入田義実 五百 入田家郎党
島津忠康 三百 島津家郎党
土居宗珊 五百 土居家郎党
渡辺教忠 千 渡辺家郎党
矢野政秀 二百 矢野家郎党+浪人
合計 二千五百
更に、大内輝弘の軍監としてついていた連中が門司城入城によって任務が終わり空いているので彼らを使うことができる。
臼杵鑑速 五百 臼杵家郎党
田原親宏 五百 田原家郎党 如法寺親並
城井鎮房 五百 城井家郎党
佐伯惟教 千 水軍衆
合計 二千五百
総合計 七千九百
また地元に帰した多胡辰敬や朽網鑑康が勝手働きと称して付いてくるだろうし、宗像勢は主君が亡くなっているので戦う事なく降伏するかもしれないが、味方になった場合、その分の兵糧が必要になる。
そうなると兵力はもう少し増えるだろう。
府内という兵站拠点と船で繋がっているとは言え、大合戦の後でも万近い兵を維持するのにはそれだけの時間がかかるのだ。
「府内の方も動員が続いているという。
戦に勝ったので、肥後の兵を戻して府内の守りに当てるとか。
それを考えたら、お屋形様の出陣も一月は先になるだろう。
博多に入るとしたら、二月という所だろうな」
彦山川合戦の影響として、竜造寺家が明確に大友家というか俺についた事だろう。
その結果、彼らは博多ではなく天草を狙う方針転換をしたのだ。
天草で竜造寺家と当たる島津家は意識がそちらに行くと同時に、勝って勢いのある大友家と対決するのを避ける。
これを受けて大友家では、阿蘇家救援は達成されたとして、肥後国に派遣していた兵を豊後国に撤退させようとしていた。
「そっか。
それぐらい時間が有るなら、みんなの着物も間に合うかな」
「どうせ着ても着なくても同じような……痛い!叩くな!!
悪かったから!!!」
「もぉ、八郎ったら知らないんだから!」
なお、有明がすけすけ絹織物の着物を羽織ったのは、残った御陣女郎達の着物が全部できあがった後である。
着てても着なくてもいいような爛れた生活を俺としていたので寒くはなかったそうだ。
ついでに言うと、戦場ストリップにおいて男の娘の人気順位はなんと一位有明・二位果心・三位お色に次いで四位だったらしい。
もちろんその後の商売はさせなかったのだが。
御陣女郎達も『あの人に負けたなら仕方ないよね』と慰めていたらしい。
いいのか?