豊薩緊張 その3 【地図あり】
捕虜となった乃美宗勝は臼杵鑑速の屋敷にて丁重に捕らわれていた。
そのあたりの待遇も臼杵鑑速の徳というやつなのだろう。
「大友主計頭鎮成と申す。
我らが勝ったとはいえ、その戦いぶり見事でございました」
「乃美兵部丞宗勝と申します。
敗軍の将にこれほどの優遇、首をとるかと思いましたが何か考えがあるので?」
臼杵鑑速の屋敷に出向いた俺は、乃美宗勝にそれを告げる。
もちろん、お屋形様こと大友宗麟以下加判衆承認済だ。
「近く貴殿は釈放される事になるでしょう。
まずは臼杵に移り、そこから船で伊予国長浜へ、そこで村上水軍の船が迎えに来る手はずになっております」
「釈放ですか……色々あったのでしょうなぁ」
「ええ。色々ありまして」
乃美宗勝の苦笑に俺も苦笑で返す。
彼の釈放については、毛利家との交渉ではなく河野家、つまり村上水軍が提示してきたのだから。
第三次姫島沖海戦で中立を宣言した村上水軍はそれゆえに毛利家の圧力を受ける事になる。
それをかわす一手としての乃美宗勝の釈放である。
このあたり、乃美宗勝が水軍大将とはいえ毛利家というより小早川家という陪臣格だったのが幸いし、この釈放に繋がった。
大友家からすれば首を刎ねるつもりだったらしいが、生かして村上水軍への貸しにするという吉岡長増の意見が通った形になった。
「なるほど。
大友殿の名前は毛利家中でも良く耳にしますぞ」
「あまり良い話では無いのでしょうな」
俺の苦笑に乃美宗勝が苦笑で返すが、すぐに真顔に戻る。
そこからの彼の言葉が俺に動揺を与えた。
「実は、こうして大友主計頭殿に会う事があるならば、お伝えせよと言われていた事があり申す」
ゆっくりと目を閉じて、心の中で罵倒する。
そんな事が伝えられるという事は、この府内に毛利の間者が居る証拠である。
きっと首を刎ねる前に逃がす手はずは整っていたのだろう。
そんな俺の罵倒すら吹き飛ぶ一言が乃美宗勝から発せられた。
「毛利家当主、毛利右馬頭様は幕府と朝廷に和議を頼んでおります。
条件は、門司合戦の和議に戻る事。
門司城の再破却も受け入れるとの事です」
その意味を噛み締めるのに、目を閉じたまま心臓が十数回鳴った。
何を言っている?
乃美宗勝の言う事が事実ならば、戦わずして毛利軍が九州から撤退する事になる。
毛利義元の、いや、小早川隆景の策か?
「その言葉、お屋形様にはお伝えしますが、返事をここでという訳には行きませぬぞ」
ゆっくりと声を落ち着かせて、俺は言葉を絞り出す。
手ぬぐいで汗をぬぐいながら動揺を隠そうとする俺に乃美宗勝は笑って勝利を宣言する。
「構いませぬ。
どうせ正式に使者が来れば分かる事。
大友殿は畿内に縁があるので、確かめられましょうて」
そこまで言って、乃美宗勝は笑う。
俺が衝撃から立ち直れないのをわかった上で、彼は必殺の言葉を俺にぶち込んだのである。
「それがしの言葉を信じてもらう証に、我らが掴んでいる大友殿の兄上の居場所をお教えしましょう」
と。
即座に府内館に駆け込んだ俺の爆弾発言に大友宗麟以下首脳部は完全にドツボにはまった。
よりによってこのタイミングで、肥後情勢の悪化と島津家と毛利家が繋がっていると露見したこのタイミングでの和議斡旋。
加判衆と側近衆を加えた評定は揉めに揉めた。
「騙されてはなりませぬぞ!
過去何度毛利の甘言に乗って多くの家が滅んだ事か!」
木付鎮秀が怒鳴れば、浦上宗鉄がたしなめる。
その声には動揺が隠せない。
「だが、幕府なり朝廷なりの使者が来て、乃美宗勝の言う内容で和議の仲介をしてきたらどうするというのだ?
既に肥後は火がついているのは知っておろうに」
散々幕府や朝廷の権威を利用してきたのだから、ここでそれを無かったことにすれば今まで積み上げきたものが崩壊する。
戦国大名に脱皮しきれていない守護大名大友家にとってそれは致命傷に等しかった。
「この和議が本当ならば、兵の全てを南に向けることができる訳ですが?」
「あの毛利狐の孫だぞ。孫も狐に決まっていようが!」
「子狐ならぬ孫狐か」
佐伯惟教の確認に田北鑑重が突っ込み、臼杵鑑速のぼやきを聞いて俺はたまらず吹き出す。
だれがうまいことを言えと。
おっと。皆の視線が俺に集まってしまった。
「八郎様はどうお考えで?」
木付鎮秀の問いかけに、俺は真顔になって答えた。
「何かの策だろうとは思うが、肥後の状況がこの有様だ。
乗る選択肢もありかもしれん。
とにかく、京の話ゆえ独断だが早船を出した」
太平洋航路だと安全マージンを取って片道一週間、往復二週間。
瀬戸内海航路では往復で一週間という所だろうか。
このタイムラグは痛い。
「問題はその先だ。
これが毛利の策ならば、往復とその後の戦準備で一月以上の時間を与えることになる。
それはまだいい。
厄介なのが、この話が本当だった場合だ。
諸将が納得すると思うか?」
言っててため息をつく。
無理だと俺自身が思っていたからだ。
「更に厄介なのは、肥後情勢もそうだが、そもそも日向や大隅の事も良くわからぬ。
手のうちようがない」
「それについてはいくらかはお答えができるかと」
俺の嘆きに反応したのは佐伯惟教だった。
水軍衆を持っている事もあってこの手の情報を押さえていたのは強い。
「木崎原の合戦は島津の大勝利なのは間違いがないのですが、島津の主力は大隅国肝付家の方に出陣していたようで。
合戦後に肝付家は降伏。
その流れで相良家も従属したと」
「という事は、相良家の主力は温存されているのか?」
黙っていた角隈石宗が、ゆっくりとした口調で佐伯惟教に確認をとるが、佐伯惟教は静かに首を横に振った。
「今回の戦いで相良家は兵を失ったとは聞いておりませんが、戸神尾合戦で大敗した打撃は回復していないでしょう。
そうでなかったら、伊東家と組みますまい」
順番が逆なのだ。
伊東家が大打撃を受けたから相良家が従属したのではなく、相良家が大打撃を受けたから伊東家と組み、伊東家が負けたから勝ち目が無くなって従属したと。
そうなると、なんなとく現在の相良家の現状が見えてくる。
「島津家には勝てぬが、伊東家と組めば勝てると踏んだ程度の兵は持っていると」
「そして、同盟国阿蘇家と揉めても構わぬと押せるぐらいの兵でしょうな」
俺の言葉に角隈石宗が補足説明をする。
木崎原合戦で伊東家が投入した兵力が大体三千。
史実で発生した響野原合戦で相良軍が投入した兵が二千。
この時期島津家が肝付戦に投入していた兵力は万を越えていた。
「なるほどな。
何で軍監なのか納得した」
俺はポンと手を叩いて一人納得する。
島津家久が大将では無く軍監だった訳は、島津の兵が肝付戦に投入されていたのと、戦力を残したまま従属した相良家に配慮したという訳だ。
「相良家は何を条件に従属したのだ?」
田北鑑重が佐伯惟教に尋ねるが、答えたのは角隈石宗だった。
このあたりは間者を押さえているのと居ないではっきりと差が出る。
「葦北郡の譲渡だそうで」
「戦わずに下ったのだから、寛大にならざるを得ないか」
田北鑑重の感想に俺は肥後国の地図を取り寄せて確認する。
相良家は人吉盆地という山の中に本拠が有るため、球磨川を下って海に繋がることで発展してきた。
その球磨川河口に位置する港町が八代である。
八代は八代郡。
つまり、将来の反逆に備えて相良家の生命線に当たる八代を守り通したという事か。
そんな事を考えながら地図を眺めているともうひとつ気付く。
焦点になっている名和家が治める宇土半島まで島津家の勢力圏に入ると、八代海が島津の風呂桶と化す。
「狙いは八代海の船便だろうな」
海上交通こそ、南九州の覇権の鍵となる。
得た天草と葦北郡を押さえた意味は、それしかありえない。
そして、八代を島津が押さえなかった理由も見えてくる。
相良家の生命線である球磨川河川交通を奪って反感を買うより、そこから先の八代海の船便を握ったという訳だ。
全戦力を相良家にさけない島津家の政治的妥協と利確が透けて見え、代替わりした大名島津義久の才能の片鱗が見事に光る。
「で、だ。
こういう状況でどう動けば良いと思う?」
場が煮詰まった所で大友宗麟が声を出す。
反応したのは角隈石宗だった。
「兵は送りはしましたが、また島津と戦うと決まった訳でもござらぬ。
此度の派兵は肥後国衆の動揺を押さえる。
それ以上でもそれ以下でもない事を忘れねば問題なかろうかと」
名和家をはじめとした肥後国人衆が雪崩を打って島津家につく事を押さえるのが今回の派兵の目的である。
同盟国である阿蘇家と組んで国人衆を糾合したら一万程度の兵は作る事ができるだろう。
「相良家には使者を送り、繋ぎを作っておくべきでしょう。
勝てぬから島津に降ったならば、こちらの力を見せつけておけば転ばせることも容易かと」
角隈石宗の話を聞く大友宗麟が有能だったというのは良く言われていたが、事実彼の軍師としての才能を目の当たりにして感心するしか無い。
状況を整理してここに解決策を提示する事ができる人間が無能であるはすがない。
だからこそ、最後の問題については大友宗麟ではなく俺の方を角隈石宗は見る。
「八郎様の兄上の件は八郎様にお任せしましょう。
場所が場所ゆえ、後詰めに出てこられるかと」
乃美宗勝から聞いた俺の兄である菊池則直の消息だが、天草を巡る争いで敗れた後残った切支丹を連れて海路博多に流れて高橋鑑種の元に身を寄せているという。
顔を見たことも無い兄とは言え、兄弟で殺し合いをするとはと嘆く思いを心に封じて、俺はただ頷くことでその返事をした。