モラトリアムの終焉 【地図あり】
四国情勢の緊迫化でも俺は岸和田から動かない。
いや。動けない。
気づいてみたら畿内が安地になっているなんてなんという皮肉だと笑いたくなった所で、大鶴宗秋から声がかけられる。
「宇和島にお帰りにならなくてよろしいので?」
「帰れん。
今帰ってみろ。
高橋鑑種謀反の連座で腹を切らされかねん」
城の庭から大坂湾を眺める。
女たちの腹もはっきりと膨れてきたのに畿内に居て良いのかと思うが、これが最善の手なのだから仕方ない。
人は理性のみでは出来ていない。
むしろ、その理性の皮の下にはどす黒い欲望が渦巻いている。
絶賛苦戦中にも関わらず、大友家内部では高橋領と俺の領地を没収して分け与えろという声が渦巻いているらしい。
この声は、武将クラスから来るのではなく、実戦力クラスの足軽大将あたりから上がるからたちが悪い。
要するに、家の次男坊や三男坊、もうすぐ領主なんだが土地が無いなんて連中が上の武将に働きかけるのである。
俺と高橋鑑種の領地を足したらおよそ三十万石近く、一国の石高に匹敵する。
毛利軍も撤退し、それを奪い取れるというのだから、鼻息も荒い。
……取らぬ狸の皮算用もここに極まれりである。
「それに気づいているか?
九州の情報がひどく少ないかわりに、こちらに何も命じてこないことを。
お屋形様と加判衆の苦肉の策だろうよ」
九州情勢は商人達のネットワークから入ったり田原一族や佐伯一族経由の情報で、府内における大友家の方針がまったく耳に入っていない。
これはもう意図的に遮断しているとしか考えられない。
府内と海を挟んだ南予に帰ったら、俺に対しての処分を正式に命じないといけなくなる。
あくまで領地返上はこちらから申し出た事なので、正式な処分として確定していない。
帰ったら、高橋鑑種の謀反に連座して腹を切れという声が確実に出てくる。
いや。
確実に今この瞬間にも吹き出ているのだろう。
何しろこちらが手放した領地は十万石近い石高に色々な内政商品が揃っている。
それが自分の物になるかもという誘惑を誰が責められるだろうか。
「それでは、南予の一万田様へお任せするので?」
「ああ。
もっとも、ここからでもできる手はあるさ」
南予情勢はかなり切迫していたが何とか拮抗している。
大友軍は夜昼峠と鳥坂峠に陣を敷いて防戦の構えを取っていたが、毛利軍は水軍を使って喜木津に上陸。
八幡浜を直接狙う動きを見せたのである。
だが、阿波三好家を背景に持つ石川通昌が予州河野家を動かし、河野家に圧力をかけて動きを抑えたのだ。
守りの堅い峠の陣を攻めるのは愚策、かといって八幡浜を落とすには宇和海の制海権をかけて大友水軍と決戦を挑まないといけない。
それは、負けた場合損切りしたとはいえ勢力的には毛利側になっている高橋鑑種や竜造寺隆信に後詰を送れない事を知らしめる事になる。
その為、毛利軍は宇都宮領守備隊を残して海路撤退する事になった。
「長宗我部殿ですか?」
「正直、そこを通るとは思わなかった」
進行方向を完全に俺に塞がれた長宗我部元親だが、まさかの獣道侵攻を敢行する。
久武親信の率いる二千が河野家の浮穴郡に侵攻したのである。
一万田鑑実の書状と長宗我部元親の書状からだと、仁淀川上流がこの浮穴郡で山が厳しいが行き来はあったりする。
で、長宗我部元親は、
「恩も情もある大友殿にお味方する」
とこっちに文を送りながら、一万田鑑実の了解を取り付けたらしい。
八幡浜方面が緊迫していた一万田鑑実はこれを了承し、危機を凌いだという所なのだろう。
なお、完全に不意を突かれた河野軍はこの侵攻に対処できずに敗北。
領主大野直昌とその手勢が宇都宮領防衛に居たこともあって彼の居城大除城は落城し、河野軍は三坂峠まで撤退して戦線を再構築する羽目に陥っていた。
「毛利にとって想定外だったのが、河野以外の四国はほとんど俺の味方だったという事だよな」
口に出してみてその有利性に改めて驚く。
南予の自領に、三好準一門として阿波三好家、本人曰く恩と情でこちらについた長宗我部家。
それでも宇都宮領に大兵を派遣したのは、ここで戦線を構築しないと河野家が潰されると踏んだからか。
宇都宮領内で防衛線が構築できるなら、三坂峠と桜三里という峠で河野家本拠がある道後平野への侵入は阻止できるからだ。
「河野家のある道後平野は四国有数の穀倉地帯だ。
長宗我部元親も石川通昌も欲しくてたまらないだろうよ」
俺が来年の飢饉を見越して穀物をかき集めている事は長宗我部元親も感づいているだろう。
それは、国土の大半が山で食料自給が厳しい土佐にとって死活問題だった訳だ。
俺との繋がりで交易による穀物確保は可能だが、自給を考えつつ俺を怒らせないとなったらそこしか無かったと。
「これで四国はとりあえずは大丈夫だ。
そうなると、ここから手が出せる所は美作か」
一方で、山陰山陽方面の状況も膠着している。
宇喜多直家が謀叛後に毛利家と組んだ事で、備中国三村家当主三村元親が激怒して毛利家から離反したのである。
事態を重く見た毛利家は毛利元清・熊谷信直が率いる兵で討伐に向かうが、備中国の兵を動員する事を前提にしていたのでまったく足りず、急遽出雲に向かっていた吉川元春の兵を送る羽目に陥っていた。
これにより一息ついた尼子勝久と浦上宗景は反撃を開始するが、孤立を恐れた宇喜多直家は即座に浦上宗景に謝罪し降伏。
誰もが唖然とする手のひら返しだが、ここで粛清すると防備を固めた毛利軍と戦うことになる尼子勝久の仲介で双方手打ちが結ばれたのである。
「なれば、誰か送るので?」
「送るというより期待するかな。
こんな書状が来ている」
大鶴宗秋に書状を手渡す。
相手は美作国三浦貞広家臣、牧尚春。
目まぐるしく情勢が動く山陰・山陽戦線のキーパーソンの一人で、大友家や三好家に何通も書状を送って支援を求めていた。
書かれていたのは、戦況報告と俺が送った根来・雑賀衆へのお礼である。
「という事は追加を?」
大鶴宗秋の言葉を途中で手で止める。
そしてその先は俺の口から続ける。
「送ってまた宇喜多直家に使われたら目も当てられん。
まずは現状の確定だ。
三村の裏切りと宇喜多直家の降伏で毛利の戦線に穴が開いている。
という事は、他が手薄になるだろうよ」
その時に声がかかる。
死ぬほど忙しいはすだが、ご主人分なるものが欲しくて久々に取次をしている井筒女之助である。
「ご主人。
諸将の皆様があつまっているよ」
「分かった。
大鶴宗秋。行こうか」
「はっ」
庭から城の広間に座ると、諸将が頭を下げる。
今回呼んだのは、吉弘鎮理、小野鎮幸、白井胤治、田中成政の四将に和泉国守護代の淡輪隆重である。
淡輪隆重が頭を下げているのに俺は苦笑して頭を下げる。
「守護代殿。
頭をお上げくだされ。
それがしは既に守護代ではないのですぞ」
「いえ。
我らにとって殿は殿でございます」
実に胃が重たい。
既に松永久秀に彼らへの優遇の言質はもらっているが、その土地に根付くからこそ彼ら地場国人衆を俺は置いていかざるを得ないからだ。
「とりあえず話を進めよう。
来てもらったのは、南伊予の戦況についてだ。
一万田鑑実の書状によると、長宗我部殿と三好殿の助けによってひとまずの危機は去ったが、宇都宮領は毛利のままだ。
ここを落とさないと領内の安全が確保できぬ。
その為に、そなたらを送ろうと思う。
帰還後は一万田鑑実の指揮に従え」
「承知」
「……よろしいので?」
合戦を期待して短く了承した小野鎮幸に、めずらしく言い淀む吉弘鎮理。
俺の手元にある戦力の殆どを送るのと同時に、大友家の監視の目が外れる事を懸念したのだろう。
それは、府内の更なる不信に繋がりかねない。
「構わん。
現状は南予の勝利で高橋鑑種謀叛の連座を消すことが先だ。
でなければ俺はいつまでも帰れぬ」
一族だった一万田鑑実と烏帽子親だった俺の二つの意味を匂わせながら吉弘鎮理に言い放つ。
そのまま俺は顔を淡輪隆重に向けた。
「手持ちの兵をかなり出してしまうが、守護様および守護代様の命には従う所存。
そのことを守護様に伝えていただきたく」
俺の手持ち兵力の減少は、そのまま俺が畿内から離れる事と直結している。
淡輪隆重はただ首を縦に振ったがその後で、こんな事を言い出す。
「それでしたら一つお願いしたい事が。
おい」
その声で、控えていた若武者が一人姿を現す。
そして平伏して自己紹介をした。
「淡輪隆重が嫡男、新兵衛重利と申します。
ぜひ、殿の馬廻に加えて頂きたく」
ある意味人質であり、同時に四国に帰っても繋がりを切らないという決意でもある。
淡輪家は水軍衆の家なので、俺の主導する太平洋航路でも利をあげているのだ。
ある意味、淡輪重利は佐伯鎮忠と似たようなものか。
「ああ。
しっかり働いてくれ。
しかし、水軍出身の侍が多いうちは馬廻というよりこれだと船廻だな」
俺の冗談に皆が笑う。
そこに入ってきたのは、すっかりお腹が大きくなった果心だった。
「八郎様。
今、庭の鷹がこれを」
未だ俺と松永久秀が繋がっていると知っている者は少ない。
対立状況が演出された為に、彼が送ってくれた鷹が唯一の連絡手段となっている。
文を手に取る。
そこには、ただ一句だけしたためられていた。
『我が天下ぬるきものぞと言うものの 梓弓矢も取りたるもなし』
分かってしまった。
分かりたくなかったのに。
これが三好長慶の辞世の句なのだと。
畿内の巨人が墜ちたのだと。
これを見た松永久秀は何を思ったのだろうか?
「間者からの報告だ。
三好内府がお隠れになったらしい」
諸将の顔に緊張が走るが、俺はそれを見ずに外に広がる大坂湾を眺める。
自然に涙が溢れていた。
「殿。
では、我らの帰還については……」
大鶴宗秋の進言を俺は途中で止める。
生きる者は立ち止まってばかりではいられない。
歩き続けないといけないからだ。
「いや。
むしろここで兵を抱えている方が疑念が増す。
即座に帰る準備をせよ。
守護代殿。
お家の水軍衆をお借りしてよろしいか?」
「喜んで。
ご安心あれ。
和泉国国衆が殿の御身守ってみせましょうぞ!!」
三好長慶死去。
この激震に畿内が、日本が揺れた。
そして、彼が担った天下人の座はあいたまま、まだ誰が座るのか決まっていない。