内政の時間 その2 【系図あり】
「支度はできたか?」
「ちょっと待ってよ!
いまいちやり方が……」
「お手伝いします」
領内視察についていけないのにこまったオールタイム痴女連中だが、せめてスタイリッシュ痴女に戻すようにと妥協した結果、新たな商品が生まれた。
ブラジャーである。
どちらかと言えばマイクロビキニと言った方がいいのかもしれない。
作り方が簡単で、うちの奥は男の娘を除いて大きな胸しかないので彼女たちに大好評を持って向かえられた。
なお、下は褌である。
これに法被を着せたので何処のお祭りかと突っ込みたいが我慢する。
どうも西国遊女界において俺の奥は流行の発信地になっているらしい。
で、修行したいと単身流れてきた遊女もいれば、囲われた遊女が商人の後援でこちらにやってきたという輩も居る。
俺の本拠地化と水軍の再編、更に大陸交易寄港地としての賑わいから宇和島の町は活気づいており、歓楽街が出来たのは喜ばしい事である。
そこから俺の懐に落ちる銭と情報は馬鹿にならないからだ。
たとえば、
「近江に逃げた覚慶様は還俗し足利義秋と名乗ったそうです。
ただ、織田信長は丁重に保護はしたけど、それ以上の動きは見せておらず、伊勢侵攻に力を注いでいるとか」
畿内から来た遊女経由で得た一番でかい情報がこれである。
これは織田と三好の激突かと固唾を呑んで見守っていた畿内諸侯は肩透かしを食らうことになったが、俺はこの情報にかえって恐ろしさを感じた。
織田信長は優先順位を間違えない男だ。
そして、攻勢と守勢を間違えずに待つことができる男だ。
風前の灯とは言え足利義栄がまだ生きている間は動けないし、そのまえに長島以外の伊勢を抑えて後顧の憂いを断っておきたいのだろう。
加賀一向一揆には打撃を与えたのですぐには動けないし、信濃を治める武田家は北条家と組んで上野国で上杉家と激しく争っていた。
徳川家とは同盟を結んでおり、伊勢を握ってしまえばその全軍を京に向かわせる体制ができるのだ。
その兵力は六万近くまで膨れ上がるだろう。
外交とて織田信長は手を抜いていない。
放置せざるを得なかった大和国筒井家や紀伊国畠山家、丹波国波多野家あたりには声をかけているだろうし、足利義秋の保護のみで留めているのは三好家と亀裂が入った足利義維との関係を見極めようとしているのだろう。
だが、ここまで整えても手を出さないという事そのものが、三好長慶という傑物の凄さを物語っている。
京は一触即発の状況ではあるがまだ合戦には至っておらず、若狭武田家や丹後一色家は三好家の実力を知っているから三好家につくだろうと遊女たちが話していた。
阿波の謀反は安宅冬康が一万の兵を伴って讃岐国引田城に上陸して讃岐国人衆数千と共に阿波国へ侵攻。
第二陣三好義興と十河重存が率いる八千の兵も上陸したらしく、鎮圧はできるだろうと俺は踏んでいる。
問題は鎮圧までの時間だ。
もし鎮圧中に足利義栄の命が尽きたら致命的な混乱が畿内に発生することになる。
安宅冬康・三好義興・十河重存というメンバーを四国に送ったのは、その致命的混乱時に三好を四国から再起させるためのセカンドプランではないかと俺は疑っている。
そういう解釈をすると、俺の立場は四国三好家の復興とそれによる畿内派遣軍の大将の一人という事になる。
俺が南予に囚われ、阿波三好家謀反で三好長慶は対織田戦を攻勢では無く守勢で乗り切ることに決めたのだ。
松永久秀が詰めている勝竜寺城には数千の兵が詰め、他の三好一族や諸将にも謀反鎮圧の名目で戦の準備を命じているそうだ。
一向宗にも支援を求め、雑賀・根来の傭兵集団の雇用に成功した畿内三好軍の総兵力は四万を超える。
まだ、現状では負けた訳ではない。
「八郎。
おまたせ。
で、どこに行くの?」
果心を伴った有明が姿を現す。
なお、明月は奥の差配、お蝶はまだアヘって気を失っているはずだ。
小少将は宇和島の歓楽街一番の大輪として咲き誇っている。
「三間の方に行く。
のんびりと旅を楽しもうじゃないか」
田中久兵衛、白井胤治、佐伯鎮忠率いる馬廻三百人を連れての視察旅行である。
この兵数が戦国の旅を物語っていた。
窓峠を越えて広がる三間盆地はこのあたり有数の穀倉地帯である。
四万十川水系の豊かな水と南国の温暖な気候はこの地に二毛作を根付かせて、豊かな穀物を産出していた。
案内をするのは一条家一門衆に返り咲いた河後森城主渡辺教忠で、彼の郎党まで入れると五百人を超えるちょっとした軍事行動になっていた。
「水車が多いな」
「大友殿がうどんなるものを広めましたからな。
麦の良い食い方ができたとみな喜んでおりますぞ」
そういや、うどんがないからと阿波で作ったな。
懐かしい。
凄く遠い昔のように思える。
「あれは、蕎麦にも使えましてな。
今度蕎麦を麺にするやり方も教えましょう」
ついでだから蕎麦も作ってしまおう。
なお、土佐の名産の一つが鰹節である。
まだ実在してないので長宗我部元親に高値でレシピを売りつけるか。
「で、一条家御一門衆の渡辺殿がわざわざここまで出向いた理由をお聞かせ願いたい」
つまり、宇和島城でするにはやばく、かといって話さぬ訳にはいかない話という訳だ。
西園寺家十五将の筆頭でもあった彼にとって、この三間の地は勝手知ったる土地というのも都合が良かったのだろう。
「ははは。
バレてしまいましたか。
とはいえ、この時期にこのような話をしに来たと言えば、察しがつくのでは?」
「……」
渡辺教忠の切り返しに俺は黙り込むしか無い。
つまり、絶賛混乱中の一条家内紛の仲介を頼みに来たと。
「まぁ、同じ大友の血を引く者として手を貸すには吝かではないが、そもそもどうなっているのかをこちらは知らぬ。
それは話していただけるのでしょうな」
「もちろん」
という訳で解説タイムだ。
この手の話は大体過去にまで因縁が遡るが、この一条家もまた同じく過去にその原因があった。
一条兼良。
『日本無双の才人』と評された彼の完璧過ぎた所に全ての原因がある。
関白太政大臣まで極めたこの人は長く生き、その生涯に二十六人もの子を成している。
で、一条家と土佐一条家はこの時に別れた。
一条兼良の長男一条教房と一条兼良の第二十三子である一条冬良である。
時は応仁の乱。
権威は崩壊し、武士の下克上が始まろうとしている中、公家や寺社の荘園は武士達によって容赦なく横領されていった時代に一条家は地方への避難とその土地に権威を与えることで乗り切ろうとした。
その権威と朝廷で磨かれた政治力は地方国人衆達の調停に大いに役立ったのである。
こうして土佐国は一条教房によって中央の、特に管領細川家の介入に抵抗することに成功したのである。
このあたりは成功物語だ。
そして、ここから成功に伴う必然が一条家を襲う。
一条教房にとって土佐は一時の避難先であり、中央へ帰ることは既に決められていた。
だが、中央の権威というものの味を占めてしまった土佐国人衆達は神輿として一条家血族を土佐に残すことを求め、一条家の方も土佐から上がる収益を欲したのである。
こうして、宗家は一条教房の長男である一条政房が継ぎ、次男で土佐一条家の実質的な祖になる一条房家が土佐に残る事になった。
一条政房が応仁の乱のどさくさで殺されるというハプニングがなければ。
ぽっかりと空いた一条宗家の座だが、一条教房が一条房家をそのまま回せば問題はなかったのである。
だが、この時点で『日本無双の才人』と評された一条兼良が生きていた事が一条家を不幸に追い込むことになる。
一条兼良が遅くに作った子、一条冬良が一条宗家を継ぐ決定が下される。
理由は一つ。
一条房家の母が土佐国人衆の一人である加久見宗孝の娘だったからだ。
一条冬良の母は町顕郷の娘という公家の出で、二条政嗣の娘との縁談で朝廷内の格も問題なかった。
これが一条宗家と土佐一条家の確執のはじまりである。
一つの家でも諍いは起こるのに、距離の離れた二つの家等確執が起こらない方がおかしい。
とはいえ、一条家は必死にこの打開を試みていた。
一条冬良が子が恵まれなかったから土佐一条家から婿養子をもらおうとしたのである。
ここから確執の第二幕が上がる。
一条宗家への養子に行ったのは『次男』の一条房通で、土佐一条家は『長男』一条房冬が継いだのである。
既に経済力では土佐一条家の方が圧倒しており、京の一条宗家は応仁の乱の影響から土佐一条家の経済力無しでは成り立たなくなっていた。
このあたりから、一条家と土佐一条家の確執が表面化しだす。
稼いでいる支店が、お荷物と化した本社の言う事を聞かなくなった訳だ。
この貴種を西国の守護大名は利用しようとした。
最初は応仁の乱の勝者である大内義興。
彼の娘の一人が一条房冬との間に作った子供が大内晴持で、彼の早すぎる死が大内家滅亡の引き金となる。
なお、大内義興の娘の一人と大友義鑑との間にもうけたのが大友義鎮であり、大内義長である。
ちなみに、この話をしてくれている渡辺教忠は、一条房冬の息子の一人一条教行の次男に当たる。
月が満ちれば欠けるとはうまく言ったもので、悲劇も多ければ喜劇に変わる。
そんな喜劇第三幕が土佐一条家を襲う。
人がどうにもできないものに寿命というものがある。
その寿命が土佐一条家を襲ったのだ。
一条房家が天文8年にこの世を去ると、一条房冬が父の死からわずか2年後に病死したのである。
若き後継ぎである一条房基が一条家を背負うには戦国の世は乱れすぎていた。
九州をめぐる大友家と大内家の争いは大内家優位のうちに進んでいたが、出雲国にて急成長した尼子家が石見銀山をめぐって大内家と激しく争い、次第に大友家が巻き返してくる。
権威を押さえている大内家に負けない権威をと大友家が目をつけたのが土佐一条家だった。
一条房基の正室に大友義鑑の娘が送り込まれたのはそういう背景がある。
こうして土佐一条家は大内家と大友家の血脈に絡め取られた。
大友家と大内家の代理戦争の影がちらつく中、土佐一条家という己の利益を守る為に一条房通は土佐国に下向して必死に土佐一条家を守った。
だが、それは実権を握らせてもらえなかった一条房基から見てどう映ったか。
一条房基の狂死について渡辺教忠は語ろうとしなかったし、俺もそれを尋ねるつもりはなかった。
そういう事だ。
ついでだが、天ヶ森合戦で討死した津野定勝は一条房基に対して謀反を起こしたが失敗した津野基高の息子で、一条房基の娘をもらって一門衆に入ったという経緯がある。
さらについでだが、西園寺家もこの一条家の血を入れて権威の強化をしている。
西園寺公広の母が一条房冬の娘なのだ。
親兄弟一族で争うのが戦国とは言え、聞けば聞くほど無常観が漂うのはどうしてだろうか。
こうして現在の第四幕、つまり一条兼定の時代になる。
イベントを時間軸でみればこうなる。
一条兼定の父親である一条房基の狂死が天文18年4月12日。
大友二階崩れが天文19年2月。
大寧寺の変が天文20年8月。
一条宗家の一条兼冬が天文23年2月26歳の若さで早死。
弘治2年10月一条房通死去。一条内基が跡を継ぐ。
一条宗家と土佐一条家の関係に大内家と大友家の血脈代理戦争がここで派手に暴発する。
一条兼定は幼く、土佐一条家の内部は大内派と大友派で四分五裂状態。
それを必死になって支えた一条宗家の一条房通が死んだ事で、一条宗家と土佐一条家の糸は完全に途切れた。
更に宗家の一条兼冬の死がこの断絶を修復不能なまでに追いやってしまう。
一条内基は、天文17年(1548年)生まれで、弘治4年(1558年)1月に、正五位下右近衛権少将からのキャリアスタート。
だが、一条兼定は、天文12年(1543年)生まれで、天文21年(1552年)7月には従三位にまで登ってしまっていた。
多分二人の内心はこんな感じなのだろう。
「京の宗家と威張りやがって!貧乏公家が!!こっちの銭で好き勝手しやがって!!
傍流のくせに宗家ぶって挙句に俺よりも官位が低いだと!
出直してこい!!!」
「散々土佐で後見して土佐一条家を助けたのに大名化したら恩を忘れおって!
誰が大内や大友から土佐一条家を守ったか忘れたか!!
いいだろう。
高貴な血を使って官位を上げて出直してくるから待ってろ!!!」
それは揉める。
間違いなく揉める。
そんな激しく炎上中の土佐一条家は南予侵攻という俺のイベントに乗っかって形の上では勝利したが、天ヶ森合戦の大敗もあって完全に統制が取れなくなっていた。
戦のあとの再編は必然的に大名の権力を強化する。
それは、土佐一条家の上がりで生活している一条宗家にとって許されることではないからだ。
この土佐一条家の混乱を安芸家侵攻中の長宗我部元親が煽っており、その炎上が俺に移る事を毛利元就が期待しているのは言うまでもない。
解説終わり。
「一応聞くが、俺に何を求めているんだ?」
「大友殿は畿内で名を轟かせ、三好殿の姫をもらっているお方。
三好殿を通じて仲介をお願いしたく」
表情には出さないが俺はため息をつきたくなるのを我慢する。
三好家の状況はこちらにも伝わっているだろうにそれを頼む状況分析の甘さというか、それしか頼めない現状を理解してのお願いなのか。
だからこそ、渡辺教忠の次の言葉に衝撃を受ける。
「実は、土居宗珊殿を中心に大友家に介入を求める勢力があり……」
そういう事か。
『大友家一族である一条兼定への支援』という名目か。
十河重存のせいで流れたが、一条兼定への嫁入りもこの流れの中にあるのだろう。
戦国大名大友家からすれば、自勢力圏内に絶賛炎上中の大名家があって、しかもその大名家が大友縁者と来た訳だ。
手を出さないほうがおかしい。
そして、その大名家である一条家の隣に俺がいる訳で。
あ。
これ、詰んだ。
津野定勝の嫁は元々一条兼定の娘になっていましたが年代が合わないので、一条房基の娘に変更しています。
足利義秋 あしかが よしあき
一条兼良 いちじょう かねよし
一条教房 いちじょう のりふさ
一条冬良 いちじょう ふゆよし
一条政房 いちじょう まさふさ
一条房家 いちじょう ふさいえ
加久見宗孝 かくみ むねたか
町 顕郷 まち あきざと
二条政嗣 にじょう まさつぐ
一条房通 いちじょう ふさみち
一条房冬 いちじょう ふさふゆ
大内義興 おおうち よしおき
大内晴持 おおうち はるもち
一条教行 いちじょう のりゆき
一条房基 いちじょう ふさもと
津野基高 つの もとたか
一条兼冬 いちじょう かねふゆ