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この話を読むために知っておくとわかりやすい戦国時代前期のお話

編集さんに『九州情勢わかんない』と言われたので解説を入れよう

 戦国時代。

 十五世紀末から十六世紀末にかけて日本各地にて戦乱が発生した時代の事を言う。

 その戦国時代を終わらせた人物たちの名前の方は読者の皆様ご存じであろう。


 織田信長

 豊臣秀吉

 徳川家康


 の三英傑が登場する前のお話を軽く語ろうと思う。

 最近は研究も進みこのあたりの話がだんだん読者も分かるようになってきたと思うが、それでもややこしいのがこの時代なのである。




応仁の乱

 応仁元年(1467)- 文明9年(1477)


 古くは戦国時代の始まりをこの応仁の乱にしていたが、今でもその重要性は変わる事はない。

 将軍家、斯波家、畠山家の家督争いに大大名細川家の東軍と山名家の西軍を盟主に十一年間も戦ったこの戦いは日本全国に合戦をばら撒いた。

 それぞれの軍の総大将である細川勝元と山名宗全が死んでも戦いは続き、将軍の権威は失墜し、多くの守護大名が没落する中、ある大名家はその覇を西国に轟かせる事になる。


 大内家


 本州の端である周防国・長門国に本拠地を置きながら京政局に絡むだけでなく、九州にも影響力があった大内家は筑前国や筑後国も領国として支配しており、その結果九州の守護大名勢力VS大内家という形で応仁の乱に巻き込まれる事になった。

 大内家は筑前国にて少弐家と、豊前国にて大友家と戦いつつ、西軍主力として応仁の乱では京都で戦い抜き、西軍の降伏後にも領国である周防・長門・豊前・筑前の四か国守護が安堵された事で、応仁の乱後に力を失った山名家に代わり、いまだ管領として京にて影響力を保持していた細川家の対抗馬という形で西国にて影響力を強める事になる。

 この応仁の乱後に力を残していた細川家と大内家によって西国の戦国時代は始まろうとしていた。




明応の政変

 明応2年(1493年)


 最近では戦国時代の始まりをこの事件に求める人が多いぐらいの衝撃だった管領細川政元による将軍足利義材廃立のクーデターで、将軍の権威はこの事件を契機に決定的に損なわれ、室町幕府は管領細川家によって運営される事になる。

 応仁の乱が終わっても畿内周辺にはいまだ揉め事が残っており、その中でも問題だったのが管領職を狙える畠山家の分裂問題と応仁の乱後の将軍足利義尚の後継者問題であった。

 応仁の乱後、将軍職は足利義政からその子供足利義尚が継ぐ事になったが、その足利義尚が若くして近江国にて陣没。後を追うように翌年大御所足利義政が亡くなった為、次期将軍をめぐり軋轢が発生。管領細川政元は堀越公方の子供を推していたのだが、その時まだ生きていた足利義政と当時の幕府の有力者だった足利義政の妻である日野富子が足利義政の弟で応仁の乱時に西軍に走った足利義視の子供を

推したため第十代将軍となる。足利義材である。

 そのため、彼の政治基盤はその当初から弱かった。

 足利義政の死後、彼の後ろ盾となっていた父足利義視が亡くなると前管領畠山政長と組み、細川政元と対立。

 もともと足利義材を推しておらず関係がぎくしゃくしていた上に、管領職を一時的に奪われた畠山政長の元で畠山家が一元化される事に危惧を抱いた管領細川政元は、将軍親政で影響力を失うのを恐れた日野富子らとも手を組んでクーデターを実行。

 畠山政長は自害、足利義材は幽閉され、11代将軍として堀越公方足利政知の子供が迎えられる事になる。足利義澄である。

 このクーデターによって、将軍の権威は決定的に失われたが、それはクーデターが成功した事でなく、後始末に失敗したからである。


 足利義材 逃亡


 これによって彼は『流れ公方』なんて呼ばれる事になるが、将軍が二つ存在する事になり、何か争いが起こった際に片方が将軍の旗を使ったらもう片方も将軍の旗を使うという最悪の事態が西国から畿内にかけて頻発する事になる。

 そして、越中国に、後に越前国に逃れた彼が蜂起して京を目指したが敗北し、最後に落ち延びたのが大内家の本拠地である周防国だったのはある種の必然だったとも言えよう。

 そして、クーデターを成功させ幕府を掌握した管領細川家にも、権力の魔力と毒が徐々に回ってゆくのであった。




永正の錯乱から両細川の乱

 永正4年(1507年)-天分元年(1532年)


 明応の政変にて幕府を掌握し、日野富子の死後は『半将軍』と呼ばれるほど権勢を誇った細川政元だが最後はあっけないものだった。

 自邸にて身内の家臣に暗殺されたのである。享年42。永正の錯乱である。

 問題だったのは、彼は子供がおらず、三人の養子がこの時居た事で細川家家督をめぐり、家中は揉めに揉めた。これを両細川の乱という。

 この時の三人の養子は以下の通り。


 細川澄之 公家出身で関白九条政基の子

 細川澄元 阿波細川家 阿波国守護細川義春の子

 細川高国 野州細川家 備中国守護細川政春の子


 細川澄之を推していた暗殺者たちは細川政元暗殺後、細川澄元を攻撃し敗走させ細川家の家督を一時的に奪うことに成功する。

 だが、養子とはいえ元は公家の九条家出身の細川澄之に一門衆や譜代は反発し、細川澄元と細川高国が手を組んで反撃に転じると、細川澄之は敗北し自害。

 細川家の家督は細川澄元が継ぐ事になったが、問題は彼がまだ若年だった事で、彼を補佐する家宰三好之長の影響力が増大し、反発する勢力は細川高国のもとに集まる事になる。

 で、このような細川家中の混乱を流れ公方足利義材が放置するわけがなかった。

 大内家に擁されて上洛を狙うと、細川高国とその派閥は足利義材に寝返り。

 管領細川澄元と将軍足利義澄は京より逃亡し、足利義材が復帰。改名し足利義尹と名乗る。

 これによって、将軍二人、管領二人という幕府権威は決定的に失墜し、地方の大名たちは幕府を見限って自主独立の動きを見せるようになる。戦国大名が登場しようとしていた。

 なお、両細川の乱はその後、複雑な経緯を見せて最後は細川澄元の子である細川晴元の元に細川家家督は統一されるのだが、既に実権は家宰や守護代などに移っており、細川晴元から権力を奪い取ったのが『畿内の天下人』こと三好長慶である。


 


将軍分裂と大内家と九州


 九州の守護大名には京周辺の守護大名とは違う特色があった。

 それは、守護在京制から外れているという点。

 本来の守護大名は京に滞在して幕政に参加する事を求められたのだが、九州では元寇からの対外防衛と南北朝時代における南朝勢力の拡大から任国に滞在して領国を統治する事を許されたのである。

 これは、京の情勢に乗り遅れるというデメリットと振り回されないメリットを有する事になるのだが、西国の端である周防国・長門国を本拠に持つ大内家は在京を求められる守護大名である点が、九州の守護大名と違っていた。

 元々大内家は鎌倉時代より周防国に根を張り、南北朝時代には北朝に加担。

 大内義弘の時代には和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の六か国守護という大大名になったのだが、その権勢を恐れた足利義満によって粛清されるのだが、京から周防・長門はあまりにも遠かった。

 結果、本国の征服に幕府は失敗し、大内家は本国で反抗していた大内盛見に周防・長門の守護を安堵させざるを得なかったのである。

 そして、九州探題渋川家が大友・少弐・島津との争いで没落する中、中央の意向を九州に強制できる武力を持っていたのは大内家しか残っていなかった事が大内家復権の足掛かりとなる。

 西国有数の国際貿易港博多と、関門海峡を抑える事が大内家にどれほどの富をもたらしたか。

 応仁の乱の迷走の一つはこれほど強力だった大内家が西軍に加盟した結果、盟主の山名家が西軍盟主を降りても西軍が大内家を中心に畿内で頑張っていたからに他ならない。

 大内家を赦免しなければ応仁の乱は終わらなかったのである。

 もちろん、大内家が西軍に加盟したという事は大内家と利害が対立する九州の大名は東軍に着いた訳で、結果、大内家は豊前国・筑前国をめぐって少弐家や大友家と争う事になる。

 この構図は応仁の乱が終わっても変わってはいなかった。

 それが変化するのは流れ公方こと足利義材が大内家にやってきてからである。

 京を支配していた将軍足利義澄(この時期は義高)と管領細川政元はこれを理由に大内家に討伐令を出し、少弐家と大友家もそれに呼応。九州を中心に激しく戦う事になるが、足利義材が大内軍を率いて京を目指す際に、背後を大友家や少弐家に襲われたら目も当てられない訳で、前将軍という権威を用いて大内家と大友家および少弐家との外交交渉を受け持ち、それにある程度成功する事になる。

 何よりも決定的だったのが永正の錯乱にて管領細川政元が暗殺され、幕府を支えていた細川家に動揺が走った事で、このチャンスを足利義材も大内家当主である大内義興も逃すわけがなかった。

 足利義材の上洛を名目に西国に動員がかけられ、迎え撃つ細川家側も細川高国が寝返った事で足利義材の京帰還が成功してしまう。将軍に復帰した足利義材は足利義尹と名乗るようになる。

 この功績は誰が見ても大内義興の力のおかげであり、管領代として室町幕政を執行しただけでなく、従三位に上階されて公卿に列せられただけでなく、大内家に日明貿易(遣明船派遣)の管掌権限を恒久的な特権として与えられるなど栄華を極める事になる。

 だが、長きにわたる領国不在は京に居る大名よりも領国統治を行っている守護代の力が強くなる上に、この大内家に猛然と攻撃をしかける新興勢力が手出来た事で大内義興は領国に帰らざるをえなくなる。

 ここで大内家に攻撃を仕掛けたのが出雲国守護代だった尼子家であり、『謀聖』と称される尼子経久であった。

 かくして、西国は大内家を軸に、東は尼子家、西は大友家と少弐家が時には戦い時には手を結ぶという形で進行する事になるのだが、それが激変するのが大寧寺の変と呼ばれる大内家滅亡の序曲とそこから台頭する戦国大名。毛利元就の登場である。

 この物語において、毛利元就が仕掛けた仕掛けの一つが大友家で発生した一大政変。大友二階崩れである。




二階崩れの変

 天文19年(1550年)


 大友二階崩れと呼ばれる大友家で発生したクーデターとその鎮圧は大内家崩壊の序曲となった。

 当時の大友家は大内家と戦いながらも足利義材との和睦を足掛かりに、尼子家との死闘を繰り広げる大内家とは対立と融和を繰り返していた。

 天文3年(1534年)の勢場ヶ原合戦で大友軍と大内軍が激しく戦い痛み分けに終わったが、天文7年(1538年)に室町幕府第12代将軍・足利義晴の仲介を受けて和睦。

 以降は大内家と融和路線を取ることになるのだが、その結果婚姻政策で大友家当主大友義鑑の妻に大内義興の娘が入り大内家の血を受けた息子二人が世に出る事になる。

 長男の大友義鎮と次男大友晴英である。

 当時大内家当主の大内義隆には男子がおらず、養嗣子だった大内晴持が尼子家との戦いで亡くなった事で大友晴英は大内義隆の猶子となったが、天文14年(1545年)に義隆の実子・義尊が誕生したため、猶子関係を解消され帰国している。

 これは、大友家と大内家の内部に隙間風を産むことになる。

 この時期の大友家は大内家と融和を進めながら対肥後国政策を進めており、養子に送り込んだ大友重治こと菊池義武が独立を企んだ結果、菊池義武と戦い彼を追い出す事に成功したが、菊池義武を大内家は裏から支援していたからである。

 結果、大友家は肥後守護職を得たはいいが肥後国内部を固めきっていなかった。

 そんな中、大内家中も怪しくなる。

 尼子家との戦いの中で拡大した領国に武断派と文治派の対立。武断派の筆頭である陶隆房の謀反の噂も聞こえてきた中で、謀反が成功した場合の大内家当主に誰を据えるかが問題となる。

 大内義隆は討ち取るとして、大内義尊を確保できるのか?

 そこに一時的に猶子という形で正当性を確保できる大友晴英の存在は傀儡に実に都合の良いものだったからである。


 大友二階崩れは当主大友義鑑が長男大友義鎮を廃嫡して三男塩市丸に跡目を継がせようとして発生したと言われているが、その結果重臣たちと切りあいになり、大友義鑑と塩市丸が死亡し、別府に湯治に出ていた大友義鎮が家督を相続する事になるという推理小説なみの顛末を迎える事になる。さらに当主となった大友義鎮が最初に命じた事は謀反の罪を着せられて逃亡した傅役入田親誠の粛清だった。

 また、この混乱に乗じて菊池義武が肥後国帰還を果たしたが、大友義鎮はこれに大軍を送って鎮圧。

 菊池義武は和平を口実に豊後国に帰還途中戸次鑑連らの兵に囲まれて自害する事になる。


 この物語の主人公である八郎はこの菊池義武の庶子という設定である。




大寧寺の変から大内家滅亡

 天文20年(1551年)8月—弘治3年(1557年)3月


 シュミュレーションゲーム『信長の野望 烈風伝』において、このイベントは時報的意味を持つ。

 それは信長家督継承というシナリオスタートがこの天文20年3月になっていたからである。

 そして、大寧寺の変はこの年の9月に発生していた。

 つまり、織田信長が家督を相続してすぐに西国で発生した大激震の報を聞くことになるのである。

 大寧寺の変によって大内義隆とその息子大内義尊が死んだ事で、大内家当主は大友晴英こと大内義長が継ぐ事になるが、その実権は陶隆房こと陶晴賢が握っていたが、九州側の大内家領土はそのほとんどが大友家に転がり込む事になる。


 その陶晴賢を厳島の戦い(天文24年こと1555年)で毛利元就が討つと周防国及び長門国で彼の命令に従うものは少なく、大友家もその翌年に起こった姓氏対立事件こと小原鑑元の乱で後手に回り大内義長を助ける事ができなくなっていた。

 毛利元就の慎重かつ隙を漏らさない攻撃に大内義長は九州に渡る事ができず長門長福院にて自害。

 大内家旧領の内周防国と長門国は毛利家が領有する事になるのだが、もちろんそれで収まる訳がなく、毛利家は大内家旧領回復を旗印に旧大内領で策謀を巡らせば、大友家は毛利家と敵対している尼子家と手を組んで挟撃を企むようになる。

 かくして戦国大名毛利家は大友家と尼子家と戦いながらその武名と謀名を轟かせてゆくことになる。


 この物語のヒロインである有明は小原鑑元の娘という設定である。




永禄2年(1559年)春


 この年、日本各地が激しく合戦が行われていた。

 信濃国では第三次川中島合戦が発生し、武田晴信は出家し武田信玄と名を変え、長尾景虎は再度上洛し、将軍足利義輝に管領並の待遇と歓待を受けるが、その裏では長尾家の武力を背景に畿内の覇者である三好家から実権を取り返そうという意図が見え隠れしていた。

 京では畿内を支配している三好長慶の権勢は頂点に達していたのである。

 そして西国では、石見銀山を巡って毛利軍と尼子軍が激しく争う中、その隙を突いて大友軍が毛利軍に襲い掛かろうとしていた。

 第二次門司城攻防戦である。



 かくして物語が始まるのだが、この一年後に三英傑の一人が歴史に名を刻む戦いを轟かす事になる。



 永禄3年5月19日 桶狭間 織田信長が今川義元を討ち取る



 この物語はそんな織田信長が世に出る一年前ぐらいから始まる。

ごらんのありさまだよ!


……これでもかなり削ったんだぞ……orz

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― 新着の感想 ―
研究が進んだ上にWEB媒体でも公開されまくっていますから、素人目にもイベント盛り沢山で目が回るようですね。 而も大体が中央政権の余波だったり連動していたり(汗 応仁の乱で大混乱に陥った山陰山陽、関東長…
[一言] 知っておくとわかりやすい話(知ること自体がわかりやすいとは言っていない あぁ~幕府権威の崩れる音ぉ!
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