話題がない 2
緑川さんの場合
誰かが、ずいぶん前に言っていた。
「結婚は人生の終焉よ!墓場よ!」
そんな昔のセリフを思い出して、私はこっそりため息をつく。まぁ、そのときは言っていることがあまり理解できなかったとしても、そのときはそれがすごいセリフに思えた。
しかし、30代で結婚した自分が考える現実は「墓場というより砂漠だ」が正解である。
海の見えるベランダのようなレストランテラスで彼はうつむいて座っていた。
「おまたせ。」
「………ああ。」
携帯から目も話さずに彼は言った。指だけがせわしなく動いている。
「お昼はなに、食べたの?」
「………。」
返事はない。外だけのことはあって、暑いが、それなりに涼しい風がたまに吹いた。スカートのすそが揺れた。
「……。」
「………。」
「これ、片づけるわよ。」
「…ああ。」
彼の前に広げられたままの空の食器を片づけることにした。
私が彼の目の前に座って、10分。話した言葉はこれだけだった。彼の足元にいたジュンペイだって、自分が座った時には、寝そべっていたのに、立ってしっぽを振って、ぺろりと手をなめたというのに。
「行こうよ。」
「んー。」
私の言葉に彼はしぶしぶ携帯をしまった。無言のまま、ジュンペイのリードを渡す。受け取って、彼がテラスから出ると、ぽつりと言った。
「帰るか。」
「……うん。」
そして、彼はリードを受け取ると歩き出した。
なんの会話もなく、ひたすら暑い道を彼はまったく振り返ることなくジュンペイと歩いていく。聞こえるのは、ジュンペイが舌で熱を逃がす音だけだ。その後ろをなにも言うことなく私が歩いていく。そして、ぼんやり思うのだ。
あたし、なんでこの人と結婚したんだろう。
「結婚?なんにもないのに?なんでー?」
できちゃった結婚をした友人が言う。
友人たちに結婚すると言ったら、こんな反応をされた。
「いやいや、こっちが正しいから。まず結婚でしょ。子供ができたわけじゃないんだよね。」
独身の友人が言った。
「うん、プロポーズされたから。」
「でも、なにもないのに、結婚しなくてもさー。」
「んー。でも、もう付き合って、5年だし。そろそろねぇ。ご両親だって、ちょっと気になるだろうし。別に反対もされてないんでしょ。じゃ、いいじゃん。」
独身の友人はいった。
そうなのだ。
学生時代から、付き合い始めて、そのまま結婚してしまった。もちろん、プロポーズもしてもらったし、友人も呼んで結婚式もしたし、結婚指輪も貰ったし、昔から彼が飼っていたジュンペイもつれて新居も構えて、ラブラブな生活をしていた。
それから一年。
まだ一年なのか、もう一年なのか。
仕事はお互いに続けていたが、出かけることが減った。外で外食がなくなった。夏休みに一日でいいから、どこかに出かけたいと言ったら、人が多くていやだと言われた。
今日だって、ジュンペイの散歩のついでに自分だけ店によって、昼食をとった。私が、彼からの携帯メールでそのことを知って、準備をして、でかけてたどり着いた時にはもう食べ終わっていた。
今日は、新しい服なんだけどな。
昨日もどこにも行かないというから、友人と買い物に出かけた。
帰ってきて、彼の言った言葉は、「おなか、すいた。」
それだけだった。
昔は、もっと優しかったんだけどな。
社会人になると決まった時。
「いいか、俺がいるんだからな。ほれ、虫よけ。」
そういって、指輪をくれた。安物だったが、うれしかった。いまでも、箪笥の中に箱にしまって置いてある。
学生の時から桜の時期は、花見に行こう。夏は、花火に行こう。秋は銀杏を見に行こう、旅行にいこう。冬は寒いから、でかけたくない。そんなことを繰り返しながら、時間は過ぎていた。
彼の両親は別に結婚に反対もせず、意地悪でもなく、本当に仲のよさそうなご両親だった。彼らを見たときに、自分もこんな夫婦になりたいなとちょっと思った。
あたしもお腹がすいたんだけどなぁ。
ジュンペイの散歩に行ってくるという彼に、私は言った。
「いまから?いま、昼間だよ?暑くない?」
「あー、なんか港のほうでイベントやってるらしいからついでに見てくる。行ってくるな。いくぞ、ジュンペイ。」
出かけるのに、誘ってもくれなかった。昨日は、暑くてどこにも出かけたくないって言ったのに、今日は昨日と同じくらい暑くても出かけている。別に、観光名所に連れて行けと言っているわけでもない。ジュンペイがいるのだから、旅行も無理なことはわかっている。食事だって、外で毎日食べたいわけでもない。ただ。
あたし、何してるんだろ。
ふと彼の足が止まった。隣で、ジュンペイは、はーはーと体を揺らしている。
彼の足元ばかりを見ていたようだ。
見上げると、横断歩道で信号待ちだ。そして、青になると、彼はそのまま歩き出した。後ろを歩きながら、私は笑った。
決めた。明日、離婚届、もらってこよう。
「どうしたー?」
私の無意識な笑い声で、彼が振り返った。
「ううん、あたし、お腹がすいたから、スーパー寄ってなんか買って帰るね。家の鍵、持ってる?」
「いや、ない。」
「じゃ、これ。ジュンペイも暑いだろうから、クーラー入れておいてね。チャイム慣らしたら、開けてね。」
「わかった。」
「あ、夕飯になにか食べたいものある?」
「んー。そば?」
「わかった。そばね。」
鍵を彼に渡した。そして、また振り返りもせずに、歩き出した彼に背を向けて、私はスーパーに向かって歩き出した。
使うか、使わないかは別にして、貰ってこよう。
子供もいないし、離婚だって、いまどきそんなに大事でもないはずだ。べつに彼のことは嫌いじゃないし、離婚するほどのことでもないんだろうけど、結婚している理由もない。
結婚式に来てくれた友人たちにも、両親にも申し訳ないけれど、私の人生だし。ジュンペイには合わせてもらえないかもしれないけど、もともと、彼の犬だし。しょうがない。
区役所って、どういくんだっけ?
そばを買って、家に帰り、チャイムを鳴らした。
「ただいま。」
「んー。」
「ああ、涼しい。ジュンペイは?」
「あそこ。」
ジュンペイは、クーラーの風があたる、一番涼しい場所で寝ていた。
「やっぱり、暑かったんじゃない?足の裏がやけちゃうわよ。」
「なぁ。」
彼が呼んだ。
「はい?」
「これ、やる。」
なにか、彼の手元には包み紙があった。
「なに、これ?」
ガサガサとあけてみると。ガラスの小さな置物だった。
「どうしたの、これ。」
「買ったのさ。」
「なんで?」
「別に、かざっとけば。」
「うん。かわいいねぇ、これ。」
つい、微笑んだ自分を見て、彼も笑っているのに気が付いた。
ああ、そういうことか。離婚届はまた今度にしよう。