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くらり、アリスは眩暈を感じ、よろめいた。
この国の皇子がまさかこんな人だったとは―――。
ノエル王子のことは、友人達とのお茶会で、必ずと言っていい程、話題に挙げられていた。お茶会と言っても、言うまでもなく優雅にお茶を啜るだけの集まりではない。詰まるところ井戸端会議。そんなものが政治や経済の話などになるわけもなく、口にする大体が恋愛話。なかには嫁いでいる友人もいたが、何せ年頃の娘たちの集まりだ。晩餐会で見かけた誰々がカッコイイから始まり、すれ違いざまにみた王宮騎士の涼やかな目元に心奪われたやら、舞踏会で苦みばしった人に出逢ったとか、主にそんな内容が延々と続く。
自分は舞踏会のような華やかな場所は得意ではなく、自ずからそのような催しに顔だしすることがないため、話に挙がるような出逢いもない。出逢いもないから、経験もない。それに彼女達が話すような、恋の駆け引きだのが自分にできるとも思えないから、やはり色事には向かない。だから大抵は頷いたり、「へぇ」とか「わぁ」とかそんな返事をして、聞く側に徹していた。
そんな自分を見た友人達から「枯れてるわね」とか言われたのは悲しかったが。
そんな中、話に花が咲き、さらに盛り上がってくると、きまってノエル王子のことが取り上げられるのだった。皆、彼に対しては普段から「素敵・カッコイイ・優しい・器量良し・良識者」とそれはそれは手放しで褒めちぎっていて、「先日お見かけした際は、均整のとれた体に黒のフロックコートがよく似合い、さらに反した金の髪が映えて艶っぽかったわ~」とか「こんにちはって、優しく微笑んで挨拶くださったのよ!」なんて報告が上がると、貴族の娘らしからぬ、キャー!と悲鳴に似た声が上がるくらいだった。
そんな彼女達の様子を見る限り、彼は非常に魅力的な男性なのだろう。
実際、父や兄の相手役を頼まれて足を運んだ舞踏会で、何度か遠目に見かけたが、いつも色とりどりの煌びやかなドレスを身に纏った女性たちに囲まれていたから、やはり絶大な人気があるのは間違えないだろう。
壁の花の自分は、勿論その多彩な輪の中に入ることはなかったし、さほど興味もなかったから、近寄ろうと言う気持ちもなく、結果、王子とは挨拶すらも交わしたことがなかった。
彼ら王族は家族の上司ではあるが、自分の人生に直接関わることのない人達だと思っていた。
そう。
そうアリスは考えていたのに、本当に人生はどう転ぶかわからない―――。
目の前には、関わることのないと思っていた人物。しかもこれまで話伝えに聞いていた、皆憧れの男性とは思えない行動。
これで眩暈を感じずにいられるだろうか。
よろめきと瞬時に、両手を握りしめて彼女の目の前に跪いているノエルはそれを見逃すことなく、待ってましたとばかりに、アリスの腰にがっちりとその手を回す。
「大丈夫ですか?アリスさま」
いいえ、あなたのせいで甚く気分が優れません―――。
勿論そんなことを言えるわけもなく、代わりに「そっ その腰に回っている腕を離して戴けませんか?」とお願いをする。
今度は遮られることなく申し出ができ、また、涙されることもなかったのでアリスはホッとした。非常に残念な青年ではあるが、一応、一国の皇子だ。正直、生理的にゾワっとはしていたが、それを態度に出すことはできない。失礼があってはならない。
だがホッとした刹那、アリスはまたも唖然とさせられることになった。
「いえいえいえいえ!顔色が悪いようです。こんなアリスさまを放っておくなどできません!僭越ながら、僕が介抱いたします!」
いえ、どうか私を解放してください。
またもやアリスは目の前が暗くなった。そして「とりあえず横にならなければ!」と言う声が聞こえたかと思ったら、ふわっと体が浮き、そして横に抱きかかえられた。所謂お姫さまだっこだ。
アリスはハッとし、下ろすようにノエルに言うも「そこのソファーまでですから」と下ろして貰えない。「下ろしてください」「いいえ」の不毛な言いあいをして抱きかかえられる時間が長くなるくらいだったら、あそこのソファーへ着くまで、ものの一分程度の我慢した方がマシだろう。アリスはそう考え、堪え、ソファーへ運ばれることにした。
*** *** ***
(ああ、なんて私の馬鹿!よりにもよって、こんな人の前でよろめくなんて。ああ、なんて私の馬鹿!こんな人に抱きかかえられるなんて!)
アリスはものの一分程度の我慢だと、そう決断した自分に説教してやりたい気分だった。
よくよく考えれば、ハンカチを宝物にするだの、所有物にして下さいだの言う男が、まともなことをするはずがない。考えが及ばなかった浅はかな自分が憎い。
現在のアリスの置かれている状況―――彼女はノエルに膝枕され、ソファーに横になっていた。そして、彼は自分の膝の上に頭をのせているアリスをさも愛おしそうに見つめていた。
「アリスさまの気分が少しでも良くなれば良いのですが」
―――一これは一体、何の罰ゲームですか?
アリスは思わず毒づく。
初めは手を握らていた、それからして腰を抱かれた。そして今は膝枕され、寝かされている。しかも手も握られて、頭までなでられている。
もしかしたら、今自分が置かれている状況は、友人や舞踏会の彼女達であれば至極至福の時間なのかもしれないが、自分には何かの試練としか思えない。どんどん状況が悪化していることに、泣きたくなってくる。
もう何度「この状況から抜け出さねば」と思っただろうか。これまでは全て空回りだったが、今度こそ、今度こそ!そうアリスが強く思ったとき、あるものが目に入った。
(これだ!)
アリスはすぐさま行動に移した。きっとこれで自分は助かる!そう思って。
「エッエルさま?お水を戴けますか?」
アリスが目にしたのは「水差し」だった。あまりの出来事が続き、変な汗でもかいたのだろう。喉は本当に乾いているし、それ流石にこのままでは水は飲めない。横たえている体を起こさなければならず、グラスも持たなければいけないから、握られている手も離して貰えるだろう。この状況から抜け出すことができる、アリスはそう思い、ノエルにお願いをした。
「はい!水ですね。こちらに」とソファーの横にあるサイドテーブルにおいてあった水差しから、グラスへ水を注ぐ。
頭を撫でていた手も、握っていた手も自分から離れ、自分の考えとおりになったことで、アリスは安堵した。
水を注ぐ間にも「ふふふ、やはり愛しい人に名前を呼んで戴けるのはとても嬉しいです」と囁いてきたが、これもまた水を注ぐ音で聞こえなかったこと言うことにしておこう。
「ああ、このままですと飲みづらいですね」
そうノエルが呟く。
(よし…!)
これでとりあえずは体は自由になる。あとはどうにか王子と距離を取って…!と考えていたが、次の瞬間、恐ろしい言葉が聞こえてきた。
「飲ませて差し上げますね」
と、艶のある声でそう言い、ノエルは自分の口に水を含んだ。
(まっまさか!)
「――――――!!!!」
彼の唇が近づいてくるが、アリスは目を見開き、声にならない悲鳴をあげるだけで逃げることができなかった。
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