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それちょうど桜の舞う頃。
それまでの僕の世界は真っ暗で。
時々、息をすることすら苦痛に思えるような日々で。
その、たった一言で。
たった一言だけど、僕は…本当に…・・・
*** *** ***
「ずっとお逢いしたかったです、アリスさま」
アリスと呼ばれた少女は思わず息をのんだ。
目の前には見目麗しい青年が跪き、美しい蒼色の瞳で彼女を見つめていた。窓から降り注ぐ日の光を浴び、より一層美しく、その金の髪が輝いている。
気のせいではないだろう、彼女を見つめるその瞳は潤んでいる。
驚くほど豪華な部屋で、その豪華さを演出する調度品にも負けないくらいの煌びやかな衣装を身に纏い、跪く青年――――――それはこの国の第一皇子、ノエル・ルーウェンだった。
*** *** ***
(何がどうなってるの!?)
アリスはまさにパニックを起こしていた。本来であれば跪くべきなのは王族の臣下の娘である自分なのに、この国の次期王が逆に自分へ跪き、挙句「さま」という敬称までつけて自分の名前を呼んでいる。
卒倒してもおかしくない状況だが、そうならず、現状持ち堪えている自分を褒めて欲しいくらいの気持ちになってくる。
アリス・スタンフォード。
広大な面積を誇る、緑豊かな国ルーウェン王国の貴族の中でも最高位である「公爵」の階級を貰い受けているスタンフォード家の唯一の娘だ。腰まで流れる美しいプラチナの髪に、アメジストを思わせるような瞳を持っている。
幼い頃に流行り病で母を亡くし、父と兄とでお互いに支えあい、これまでを過ごしていた。
そのせいもあるのだろうか。貴族の中でも一段と高い階級でありながらも、その名声・富に呆けることなく、むしろ同年代の子女に比べてもしっかりとした考えを持ち、育っていた。
本来であれば「嫁き遅れ」といわれてもおかしくない年齢に達しており、現に彼女の友人達は次々と嫁いでいたが、不思議とこれまでアリスの父も兄も、そして彼女の周りの者たちも、特段それに対して騒ぎ立てることはなかった。
アリスとしても「いつか機会があれば結婚できればいいなぁ。まあ、できなかったらそれはそれで仕方ない」程度にしか考えておらず、また恋愛云々よりも、父や兄の手伝いをすることの方に喜びを感じている始末だった。
ある程度のことは要領良くこなせ、また臨機応変に状況判断をして物事をとり進めることのできる、そんな彼女ではあったが、やはり今の状況には動揺を隠せない。
「アリスさま?如何なさいました?」
うっとりとした声で、ノエル王子が自分の名前を呼んでいる。
「あ…あっあのっ ノエル王子?」
思わず声が上ずる。
「ああ、王子などとそんな他人行儀な。どうぞエルとお呼びください」
「はっ!?」
ノエルは拗ねたよう顔つきで、しかし目線はアリスから逸らすことなく、言葉を返してくる。あまりにも真っ直ぐに見詰められ、思わず彼から視線を逸らしてしまう。
(え、えーと、他人行儀と言われても…。いくらこの国の皇子で、父親が臣下と言っても、実際他人なわけだし…)
そう冷静に考えてしまう自分はきっとこのパニックからは抜け出せてきている。真っ赤な絨毯に目線を落とし、気持ちを落ち着かせる。
しかしなぜこんなことになったのか、未だ理解できない。
いつも通り家で過ごしていたところ、急に父に呼び出され、王宮に上がることとなった。いくら父親が公爵の位を持ち、王族の臣下であったとしても、女である自分が王宮に呼ばれるなんてことは、それこそ舞踏会か何かが開かれない限りはあり得ないことだった。
疑問を抱きながらも、言われたように王宮へ向かい、そして着いたとたん、呼び出した父に会うことなく、この豪華な謁見室に通されたのだった。
ぐるぐると考えを巡らせる。
そもそも自分は皇子から会った瞬間に膝まづかれ、「さま」付けで呼ばれるような身分ではない。挙句出逢って早々に一国の皇子を愛称で呼んでくれと言われる謂われもない。
父や兄が何か仕出かしたのだろうか。………道徳的人間である父が、人に迷惑をかけるようなことをすることは考え難い。また、自惚れではなく、自分を溺愛している兄も、このような状況に自分を追い込むようなことをするとは考えられない。
彼から目を逸らしたのは、時間にしたらほんの数秒だろう。その一瞬で目の前の青年は、唖然としているアリスの様子など気にも留めずに彼女の手を取った。
少しばかり強引に添えられた彼の手の熱で、ハッと気付き、彼に視線を戻した瞬間―――
その甲に口づけが落とされた。
「なっ、なっ!!」
あまりのことに言葉が出ず、その手を引っ込めようとするも、強く掴まれていて離すことができない。
「ああっ すみません!目の前にアリスさまがいることに興奮してしまい、思わず口づけてしまいました。とんだ愚行を!どうぞお許しください!」
(興奮!?)
ああ、もう何が何だか、本当に分からない。
一応は詫びの言葉を述べてはいるが、その表情からは全く悪びれた様子はない。そして手は掴まれたままだ。
「あっ あの…ノエ」
―――「ああっ!」
とりあえず手を離して貰おうと思い、彼の名前を呼ぼうとした瞬間、それはそれは悲しそうな声で遮られてしまった。
「ああっ、そうですよね。麗しいアリスさまにあわよくば愛称で呼んで貰おうとは、身の程も知らず、なんとおこがましいのでしょう!本当に僕は底の浅い、どうしようもない人間ですっ」
アリスは目の前に見える、今にも首を吊りそうな勢いで、自身を罵る言葉を羅列している皇子の姿に押され、若干戸惑い、抵抗を感じながらも口を開いた。まずこの状況を打破するには、まずは話をしなければならないからだ。
「エ…エ…ルさま」
「!!」
愛称で呼んだ瞬間、まるで大輪の薔薇が咲いたような微笑みを見せ「はい、アリスさま!」と恭しく返事をしてきた。返事の後ろには僕に敬称などは不要ですと聞こえたが、それは聞こえなかったことにしておこう。
「申し訳ございませんが、まずはそのお手を離して戴きたく存じ」
―――「うっうっうっ」
また言葉が遮られ、その瞬間―――目の前の皇子は、涙を流して泣いていた。
(ひっ!)
アリスはギョッとし、おろおろしてしまう。目の前にいる、自分と差して変わらぬ年齢であるはずの青年が大粒の涙をこぼし、嗚咽を漏らしているのだ。
「うっうっ、そうですよね。こっこんな、うっ、けっ穢れている、うぅっ、僕に触れられるのはっ、うっうっ、お嫌ですよねっ。こっ、ここに来て戴いて、そしてそのまるで小鳥が唄うようなお美しい声で、うっ、名前を呼んでっ、うっうっ、戴けた、そっそれだけでも身に余る光栄なのにっ」
その姿をみて、いっそ自分が泣きたくなってきた。挙句、自分はほぼ感嘆詞しか発していない自分の声が何故かべた褒めだ。
ここで負けてはいけない。手を離して貰うことは一旦諦めよう。とりあえずは泣きやんで戴き、話を進めなければ。
挫折しそうだった心を持ち直し、アリスは空いていた片手でハンカチを取り出し、目の前でシクシクとなく男に差し出し、その名を勿論「愛称で」呼んだ。
―――名を呼んだ一瞬で涙がピタリと止まったから驚きだ。とりあえずは涙が止まったのなら良しとしよう。ハンカチを差し出した手も掴まれてしまったことは計算外だったが。
「何とお優しい…っ!やはり貴女は僕の思っていた以上の人…!ああっ、アリスさま!僕は今日のことを生涯忘れませんっ!このハンカチは大切に保管致します!誰の目にも触れさせはしません。ああ、ああ、お優しいアリスさま!僕はせめて、アリスさまのお傍にありたいのです。お願いを叶えて下さるのであれば、アリスさまの所有物になりたいのです!」
(ああ、どうしよう………この人、変態だ)
アリスは突拍子もないことを言い始める目の前の美青年を尻目に、目の前が真っ暗になったのだった―――。