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Episode 05






「自分一人で石を持ち上げる気がなかったのなら、二人がかりでも石は持ち上がらない。だそうだ」


 それは太く低い声で、突拍子もない事を口走る。


「…」


 その言葉に反応する声はない。

 冬の寒い夜空の下、巧の吐いた息が白い靄となり風に吹かれて消える。胸をゆっくり上下させ呼吸する度に、規則正しくもその息遣いは掻き消されそうな程にか細かった。焦点の定まらないその瞳は、何処か虚空を見詰めている。

 巧からの返事はないが、構わず61は語りかける。


「誰だったか、昔の人間はそんなことを言ったそうだ。他人に頼ってばかりではなく、己がそういう気持ちを持って事に取り組まなければ上手くいかない、だったか?」


 自分でもよく分かっていないらしく、言葉の主は最後に尋ねる様にして聞き返した。だがその言葉にも反応はなく、巧はただ虚空を見詰める。

 巧は今、建築資材である束ねられた材木の上で、空を見上げるよう大の字に寝転んでいた。ベッド代わりの木材は折れたり曲がったりで、もはや木材としては使えない状態だった。

 着用しているコートは砂や砂利で汚れ、受けた衝撃により所々裂けていたり、口と鼻からは血が滴り落ちている。

 口の中と鼻腔に広がる鉄錆びの匂いはむせ返るような気持ち悪さだった。身体中が悲鳴をあげ、その痛みで意識は保っているが考えが定まらず目は虚ろだ。


「…」

「安心しろ。幸いにも骨は折れてない」


 この状況でどこも骨が折れていない事は確かに幸いだった。しかし、だとしても身体に受けたダメージは本物であり巧の戦意を削ぐには十分な痛みであった。

 痛みは巧の体力を根こそぎ奪い、今すぐに自力で動く事は困難だろう。

 その付近で巻き起こる衝撃音。衝撃が風となり砂を巻き上げ巧の身体を撫でる。

 金属同士のぶつかり合う様な甲高い音を何度も響かせ、夜の開発地区でその両者は競り合う。


「はぁっはっはっは!」


 高らかに笑い声を上げ、全身タイツで頭にテレビをかぶった人物、ジャスティスが手にした新聞紙を振るう。見かけこそ新聞紙を丸めて棒状にした物だが、振り回す度にそれは風を裂く音とともに重い衝撃を放つ凶器だった。

 それに相対するは、灰色の矢印を手にした姫神アスト。

 着てきたコートはすでに脱ぎ捨て、この冬の夜に黒いワンピースだけという姿を晒してる。

 ジャスティスが無造作に新聞紙を振るう。その動作は大降りながらも、見かけ以上の破壊力で中々自分の間合いに入れずに防戦を強いられるアスト。

 ジャスティスが跳躍し、アストへ飛び掛る。新聞紙を振り上げ、落下の速度とあわせて一気に振り下ろす。

 対するアストは矢印を横に構えて刀身部分で受け止める。互いの獲物がぶつかり合い、本来在りえない筈の火花が飛び散り甲高い音を響かせる。


「…うっ、く」


 新聞紙を受け止めるアストは、苦痛を堪えるために歯を食いしばりつつ唇を硬く紡ぐ。

 もはや見た目は全く当てにならない新聞紙とジャスティスの力に、アストはジリジリと後方へと押され始める。

 ジャスティスの方は、被ったテレビのせいで表情は見えない。だがこの状況にあっても発する奇声は声高に、まだまだ余裕を感じさせる。

 アストが矢印を逸らし新聞紙を受け流すよう横へといなす。すかさず足を上げ、顔に被るテレビ目掛けて回し蹴りを放つが、命中せずに空を切る。アストが新聞紙を横へいなす際にジャスティスは無駄に押し込むような真似はせず後方へと飛び退いていた。

 そのまま距離を取るように、再び後方へと跳躍する。ちょっとした段差の上へ降り立つと何やらポーズをとって声高に叫ぶ。


「正義のヒーローに、負けはない!」


 自身の奇抜な容姿の何処にヒーローたる要素があるのか、それはジャスティスのみ知り及ぶことだった。

 しかしそれはさておくも、見た目に惑わされてはいるが現状ジャスティスの優勢は間違いなかった。少なくともアストと正面きって互角以上に立ち向かえるその戦闘力は、正に脅威でしかない。


「…」


 虫の息にも等しい巧が、顔を横に倒しその様子を見つめる。視界はぼやけ目は虚ろに、何とか身体を動かそうと力を入れるが痛みがそれを許さない。


「早く立てよ巧」


 その状況を察しながらも、61は巧を叱咤する。


「でないとお前、死ぬぞ?」







     ◆◇◆◇◆◇◆◇







「マスクド・ジャスティス! 正義を貫く!」


 テレビ人間、ジャスティスが新聞紙を片手に駆ける。なんとも緊張感がないその姿だが、その足は速くあっという間に巧達との距離を詰めた。

 雛乃を支える巧の横をすり抜け、アストが前へと出る。手にした柄からは既に矢印の刀身が伸びていた。

 ジャスティスが走りながら手にした新聞紙をアスト目掛け振り下ろす。対するアストは無表情で矢印を横薙ぎにし、振り下ろされた新聞紙を正面から受け止める。


「…!?」


 その表情が驚きに変わったのは、互いの武器が激突したすぐ後だ。

 片手だったとはいえ、アストの矢印が押される。新聞紙の見た目とは違いその一撃は重く、予想外の力にアストは一歩退く。

 ジャスティスはそのまま力をこめ矢印を振り落とす。アストの体勢が崩れジャスティスが大きく一歩踏み込む。


「ヒーローをなめるな!」


 新聞紙を持った右手で払い除けるようにアストを殴りつける。

 バランスを崩したアストだが、その裏拳を自身の右腕でなんとか受け止める。だがその拳も重く、アストは堪らず弾き飛ばされる。

 あまりにも不可解な出来事に、アストは訝しがる。


「くっ…?」


 寸での所で裏拳を受け止めたアストだったが、その一撃は非常に強力だった。拳を受けた箇所を中心に、頑丈なコートが所々裂けていた。

 ジャスティスの拳を受け止めた部分を左手で摩る。ズキズキと痺れるような痛みだが骨までは達してはいない。


「今のが拳ではなく剣なら、君はもうやられていたよ」

「…」


 丸めた新聞紙の先端をアストに向けながら、ジャスティスは挑発するかのように言い放つ。アストの表情には手加減された事への嫌悪感で、眉間に皺が寄っていた。

 あの新聞紙にどういった仕掛けがあるのかは定かではないが、少なくとも対策もなく生身で受けるわけにはいかないだろう。アストは冷静にジャスティスの出方を窺う。

 それを察したのか無闇に攻め込むような事はせず、ジャスティスはアストに新聞紙の先端を向けたままの姿勢で左手を腰に当て仁王立ちする。


「なんだ、今の」


 一瞬の出来事に巧は唖然としていた。

 見た目こそ奇抜で、手にする武器はなんとも冗談が過ぎる代物であった。だが一撃ぶつかり合っただけとはいえ、雛乃を圧倒してみせたあのアストが押される。

 巧は驚愕し、それを確かめるために61に問いかける。


「61。アレがお前の言う…」

「そうだな。データの反応がある」


 巧の言葉に即答する61。

 ジャスティスと名乗るテレビ男も、データを所有者だという。


「うん? 何をこそこそしているんだ」


 傍目からは独り言を呟いている様に見える巧に気付き、ジャスティスが巧の方へと歩み寄ってくる。

 迂闊にもアストに対し背を向けたジャスティス。その隙を見逃すはずもなくアストが地を蹴り駆ける。両手で矢印の柄を握り締め、切先の正三角形を地面に擦らせながらジャスティスへと向かう。

 背後に迫るアストを予期していたのか、ジャスティスは振り向き様に新聞紙を横に振るう。片手で軽々と薙いだそれはアストの矢印を受け止め、逆に弾き返す。


「っ…!」


 両手の力を込めても弾かれるそれに対し打開策を見出せないアスト。

 力で負けるならばと、今度は矢印を素早く振る。手数を増やし縦に横に、時には斜めから繰り出される素早い太刀筋をジャスティスは全て打ち落としてみせる。

 互いの得物がぶつかり合うこと数十回。守りに徹していたジャスティスが動いた。

 横薙ぎにされた矢印を力を込め払い除ける。すかさず新聞紙を持つ右手を引き、先端をアストの顔面目掛け勢いよく突き出した。

 鼻先まで迫ったそれを、アストは首を捻り寸での所で回避する。

 アストはそのまま姿勢を低くし、ジャスティスの無防備な足の脛に狙いを定め、自らの片足を前に蹴り出す。

 しかしその蹴りも交わされ、ジャスティスは高く跳躍し空中で身体を捻らせ縦に回転する。そのまま姿勢を低くしたアストの頭上を飛び越え、地面に着地した。


「だ、大丈夫か?」

「…平気」


 互いの距離が空いたところで、巧がアストの近くへとやって来る。

 心配する巧に口ではそう言いながらも、アストの呼吸は少し乱れていた。激しく動いたためか頬がうっすらと赤く上気している。


「身体強化か…物質への干渉は確認できるんだが。ええいくそっ、なんだこのノイズ」


 現状を打破すべく61がジャスティスをスキャンするが、データの反応はあれどそれがどう作用しているのか、まるでノイズが混じるかのように上手く判別できずにいた。忌々しく舌打ちし、それでも解析は続けている。

 チラリと巧の方へと視線を送るアスト。

 先ほどからジャスティスは、巧には攻撃を仕掛けていなかった。悪人と呼んだ雛乃でさえも同様であり、そこに気付いたアストは着ていたコートを脱ぎ巧へと放り投げる。


「先に行って」


 巧に背を向け、ジャスティスを睨みながらアストが矢印を構える。


「何言ってんだ!」


 放り投げられたコートを左手で受け止め、巧が叫ぶ。

 自分をおいて逃げろ。言葉こそ違えど、アストはそう言っていた。


「言う通りにしろ巧」


 携帯電話から61が言う。


「お前まで…」

「現状のお前じゃ戦力にならない。足手まといなんだよ」


 反論しかけ巧が言葉を詰まらせる。

 負傷している雛乃を支え両腕が塞がっている巧は、確かに61の言う通りだった。かといって雛乃を放置すれば逃げられる。雛乃の携帯電話こそこちらの手中ではあるが、どさくさにまぎれいつ奪われるとも知らない。

 この場においての自分の不甲斐なさを、それこそ嫌になるほど冷静に理解できた事に、巧は歯を食いしばり悔しさで表情を歪ませる。


「…大丈夫」


 そんな巧を察したのか、背を向けたままアストが語りかける。


「その子が逃げないよう貴方にお願いするの」


 少しだけ振り返るアスト。いつもの無表情を顔に貼り付けながらも、その瞳はしっかりと巧を映し出していた。そこには同情や足手まといといった感情はなく、巧を信用していると言っているようだ。


「だからお願い。逃げ切れたならこっちの勝ちだから」


 アストは再び視線をジャスティスへと向ける。鋭い眼光がジャスティスを見据える。

 やりきれない思いで奥歯を噛み締めつつも、巧はアストに背を向け歩き出す。


「逃げんの?」


 支える雛乃が巧の顔を見上げながら嫌味たらしく言う。

 巧はそれに答えずただ前だけを向いて歩く。無視された雛乃はやがてそっぽを向くも、歩みを止めることはせず足を前に出す。

 徐々に遠のく二つの背を見つめていたジャスティスが、その光景を目にし驚いた。


「お、おい。何処へ行く?」


 先程までの余裕のある声色ではなく、まるで想定外といった様子でジャスティスはうろたえだす。

 そんな声を耳にしながらも、二人の背は止まることなく更に遠ざかる。後を追う様にジャスティスが走り出す。

 その間に立ち塞がるアスト。矢印を手にした右手を大きく横へと広げ、言葉はなくともここは通さないとその眼が語っていた。


「ヒーローの行く手を阻む気かい?」


 ジャスティスは駆けながらも、右手に持つ新聞紙を左肩へ背負うように大きく振り被ると、アストの綺麗な横顔目掛けて勢いよく振るう。

 アストは身を屈め、その直後頭上を薙いだ新聞紙が通過する。その体勢のまま矢印を握った右腕を突き上げる。矢印の先端が伸びるとジャスティスの頭に被ったテレビへと直撃する。

 人の顔でいう顎の部分に命中し、下から突き上げる衝撃に流石のジャスティスもよろめく。頭に被った大きなテレビが傾くも、右足に力を込め踏ん張り倒れる事はなかった。


「乱暴な!」


 半ば力尽くで大きな頭を持ち上げ、再び新聞紙を振りかぶる。その動作を見たアストが横へと転がるように飛び退いた。

 一瞬遅く振り下ろされた新聞紙の先端が地面に激突し地を抉る。激突した地点を中心に円形に陥没すると、その衝撃が風となり砂煙を巻き上げた。


「…」


 アストが駆ける。舞い上がる砂塵の中を突き破り、新聞紙を構えるジャスティスとの距離を詰める。

 互いの得物が激しくぶつかり合い、その度に衝撃音を鳴り響かせる。


「小細工などに!」


 アストの攻撃が続く。その素早さに翻弄され、ジャスティスは思うように攻撃が出来ず防戦を強いられる。

 堪らず距離を取ろうと後方へ飛び退くジャスティスだが、それを逃すまいとアストが追撃する。執拗なまでに食い下がり、反撃の隙を与えようとはしない。

 破壊力のあるジャスティスの一撃だが、その動作は大振りなものが多かった。

 それに気付いたアストは手数で攻める。矢印を薙いで打ち下ろし、素早い突きの連続でジャスティスを追い込む。


「く、の…!」


 やがて痺れを切らしたジャスティスが強引に一歩踏み込む。

 その隙を逃さずアストは矢印を突き出す。絶妙なタイミングで繰り出される鋭い突きは、ジャスティスの頭に被ったテレビへと真っ直ぐに伸びる。

 常人ならば当たったであろうその突きを、ジャスティスは伸びて来た矢印の先端を左手で掴み力尽くで受け止める。少しでも対応が遅れていたならば、おそらく中身の頭ごと貫かれていたであろう。

 さしものアストもこの行動までは予想外だったらしく、次の動作が遅れ硬直する。

 矢印を掴んだままジャスティスは右足を上げ、前へと蹴り出す。


「かふっ…!」


 矢印を掴まれ身動きの取れないアストの腹部にジャスティスの蹴りが叩き込まれる。それが命中した瞬間、ジャスティスは掴んでいた矢印を開放する。

 苦痛に表情を歪め、小さな悲鳴が漏れる。衝撃に耐え切れず、アストは後方へと蹴り飛ばされた。

 小柄な身体が宙を舞い、背中から地面に叩きつけられる。衝撃で身体が弓形になりながらバウンドし、仰向けで倒れこむ。

 それでも矢印は手放さずに強く握り締めていた。


「思ったよりは粘ったが、ヒーローには勝てないさ」


 倒れ伏しピクリとも動かないアストを見ながらジャスティスがポーズを決める。






 どれ程歩いただろうか。

 背後から聞える戦闘の音が徐々に小さくなる事を実感しながら、巧は元来た道を思い出しつつ前へと進む。

 隣で支える雛乃に目線を向ける。まだ足取りは覚束ないが、先程よりは体力も回復してきたのか歩むペースは上がっている。

 その目線に気付いた雛乃が顔を上げ、二人の視線がぶつかる。


「なんなの」

「いや」


 心なしか声にも力が戻っている。二つの黄金色の瞳に睨まれるも巧は、なんでもないと短く返事をし、また前へと目線を向ける。

 背後から響く音がまた遠のく。

 しばらく歩いた所で、雛乃が巧へと話しかける。


「何で助けたの」


 雛乃にしてみれば巧とアストは敵であり、当然二人にとっても雛乃が敵であると認識しているはず。にも関わらず、あの場でジャスティスに差し出せば自分の手を汚さずに排除できたものを、あえてそうしなかった。

 それどころかまるで自分を逃がすように、一人が囮となり今こうして逃げおおせている。

 そんな二人の行動に雛乃は疑問を感じていた。


「ん?」


 質問の意図が分からず、巧が聞き返す。


「だから、私を助けてそっちになんの得があるのか。って聞いてるの」


 呆れるかのように再度説明を求める雛乃。

 自然と歩みを止め、巧は隣で支える雛乃へと顔を向ける。


「…勘違いしてるかもしれないけど、お前を助けてるわけじゃない」


 情けでもかけられていると思ったのか。雛乃が眉根を寄せ巧を睨みつける。


「俺はお前を倒せと言われたわけじゃない。この携帯を回収してくれって頼まれてるだけだ」


 左腕にかけるように持ったコートをチラつかせ巧は言う。アストから預かったコートのポケットには雛乃の携帯電話、その中に納まる24の回収が本来の目的に過ぎない。

 確かに雛乃には酷い目に合わされた事は事実だ。が、だから彼女をどうこうするつもりは巧には一切なかった。

 怒りがないかといわれればそれは嘘だ。

 しかし個人的な感情だけで軽はずみな行動をとっていては、身を挺してまで時間を稼いでくれているアストに顔向けが出来なくなる。

 そんな巧の言葉に、雛乃は心底呆れた様な表情で巧の顔を覗き込む。


「甘すぎじゃない? それって」

「ならあのまま、ジャスティスとかいう奴に引き渡しても良かったって言うのか?」


 露骨に嫌そうな顔をする雛乃。


「やめてよそれ。あんな変質ストーカーに捕まる位なら全員ぶっ殺して意地でも逃げてやるわ」


 何故自分がこんな所で隠れなければならなかったのかを、掻い摘んで説明する雛乃。

 多少の脚色はあれど、あのジャスティスとか名乗る人物につけ回された事が大きな要因だという。巧を襲った後一度は振り切るも、その後何度も雛乃の目の前に現れては暴れまわるので参っているらしい。

 しかも自宅周辺では変な人物達が見張っているかのようで、迂闊に帰宅も出来ないとの事。雛乃はジャスティスの仲間だと思っているようだが、巧はそれが萩李の差し金ではないだろうかと薄々感じつつも黙っていた。

 自分が被害者である事を強調する言動が目立つ雛乃ではあるが、巧は気を抜かず彼女に注意を払う。


「それとさ、いい加減放してよ。一人で歩けるから」


 自分の肩を手を置き抱くように支える巧の顔を見つめ、猫撫で声で下から覗き込むように顔を近づける。


「だめだ。その瞬間逃げるだろう」

「手枷も付けられてるんだから今更逃げないわよ」


 確かに彼女の言う通り、その両手はアストの所持していた手錠で拘束されている。携帯電話も既にこちらの手中であり、今の雛乃は何の力もないひ弱な女の子に違いはないだろう。


「…遠隔操作とか出来るのか?」


 下から覗き込む雛乃を視線から外しながら、巧は61へと問いかける。

 携帯電話を取り上げた状態とはいえ、それでも力を扱えるのであればそもそも拘束も意味がない。巧の問いかけに61は一言唸り、間を空けて答える。


「そんな事が出来るなら当にやってるだろうさ。少なくともこのガキは、データを自身が持っている事が行使の絶対条件のようだからな」


 61の言葉に巧は少し考える。

 やがて雛乃の肩から手を離し、少しだけ距離を取る。開放された雛乃はグッと背伸びをし、暫くするとだらりと両肩を落とし猫背になる。


「ついでに手枷も…」

「鍵は持ってない」


 雛乃の舌打ちが静かな建設現場に響く。

 いつの間にか、背後の戦闘の音はもう殆ど聞えなくなっていた。かなり離れたようだが、巧はアストを心配し歩いてきた道の先に視線を向ける。


「そんなに心配なら戻れば?」


 一人先へと進む雛乃。片足を痛めているのか左足を引き摺るように歩いている。


「っ…だとしても、先にお前を他の人に預けてからだ」


 後ろ髪を引かれつつも、巧は前へと向き直り歩き出す。足を引き摺る雛乃を先頭に、その背中を巧が追うように歩く。


「あんまりジロジロ見ないでよ」


 巧の視線が気になるのか、雛乃が嫌そうな顔をしながら振り返る。


「逃げないよう監視してるんだよ」

「逃げないってば」


 信用ないな、とでも言いたそうに肩を竦める雛乃。確かに彼女の足の状態なら走って逃げる事は難しいだろう。例え逃げられたとしても、遠くまでは行けそうにはない。

 そんな状態だというにも関わらず、雛乃はといえば虎視眈々と巧の隙を伺っている。

 時折後ろを振り返るように巧の姿を確認する。相変わらずこちらを常に注視し、迂闊に動けばすぐにバレるだろう。


(…まったく。24にさえ触れられれば幾らでも勝機はあるのに)


 ちなみに、足を引き摺るように歩いているがこれは演技だ。痛みがあるのは本当だが、此処まで大げさな痛みではない。


(ともかくこんな所で立ち止まってるわけにもいかないし、早いとこ奪い返さないと。多少強引でも…)


 こんな状況に陥ってまで彼女が24を求めるのには理由があった。そのためにも、彼女はこんな所で立ち止まっていられない。

 一向に隙を見せない巧に、雛乃が強行手段に移ろうと振り返る。

 その時だ。警官服に身を包んだ男性の三人組が、巧達の前方から走ってくる。


「大丈夫か?」


 先頭に立つがたいの良い強面の大男が懐中電灯を手に巧へと駆け寄る。その姿には見覚えがあり、石垣の乗るワゴン車の護衛を担当していた人物だ。

 がたいの良い大男の後ろにいた、二人の男性が雛乃の両脇に並んで立つ。

 なんとも間の悪い事で、人が増えてしまっては自身の勝機はゼロに近い。出鼻を挫かれた雛乃は、低く唸りつつ奥歯を噛む。


「石垣の奴から、こっちのバックアップに回れと言われたんだが…」


 アストの姿が見えないことに気付き、大男は周囲を見渡しながらその方向へと懐中電灯の光を向ける。


「彼女なら無事です」


 そう断言し、巧は手にするアストのコートを大男へと押し付ける。


「だから、すぐに連れて来ます」

「おい待て!」


 そのまま踵を返し、今来た道を全速力で駆ける巧。後方から大男の呼び止める声が響くが、それを無視する。やがて巧の姿が曲がり角の奥へと消えた。

 残された大男はぼりぼりと頭を掻き毟り、雛乃の両脇に立った若い男性二人組みはどうしたものかと顔を見合わせている。

 そんな中、雛乃は一人静かにこの場を切り抜ける策を巡らせる。

 やがて、大男が黒い携帯電話を取り出しす。大きな指では小さな携帯電話の操作が難しいのか、やや手間取っている。

 やがて番号を打ち込み終わり、携帯電話を右耳へと近づける。


「石垣か。どうやらトラブルみたいだ、姫神の穣ちゃんが遅れてる」


 相手は石垣のようだ。石垣の声は雛乃達三人には聞えていない。


「…おいちょっと待て。そりゃどういう事だ」


 しばらく黙して石垣の話を聞いていた大男だったが、眉根を寄せ低く唸るように口を開く。会話の内容は分からないが何か不測の事態でも起こったのかと、雛の両脇に立つ男二人は言葉を交わす。

 大男が携帯電話を切る。

 雛乃達の方へ振り返り、その顔には不満そうな不服に満ちた表情を浮かべている。

 しばらくの間を置き、大男が部下である二人の男性に指示を出す。


「上からの命令だ。俺達はワゴンまで戻るぞ」








「なあ、こっちでいいのか?」

「入り組んでるとはいえ、オレがデータの存在を見失うはずがない。左だ」


 雛乃を預けた巧は居ても立ってもいられず、気が付けば走り出していた。

 元来た道をただ走るだけならすぐだが、どうやら移動しているらしく61が探査を行いながら進行方向を指示していた。

 61の指示に従いながら、角を左へと曲がる巧。

 しかしその先は建築資材が積まれ道を塞いでいた。


「跳び越えろ」

「強引だな」


 そうぼやきながらも、巧は助走をつけ勢いよく地を蹴る。巧の腰ほどまで詰まれた資材の山を飛び超え、その先の地面へと着地する。周囲を見渡す巧に61がまた指示を出す。

 その方向へと巧が向かう。やがて猛獣でも暴れたのか、そこかしこにある建築資材や地面などに生々しい戦闘の跡が残されている。


「近いな」


 走りながら、地面に落ちていた細長い角材を拾い上げる。武器とするには少々心許ないが、何もないよりは遥かにましだろう。

 しかし周囲に戦闘の痕跡はあれど、物が壊れるような派手な音はなく、巧の耳には自身の息遣いと走るたびに響く足音のみが届く。

 61は近いと言いながらも、周囲の不気味なまでの静寂が逆に巧を焦らせる。

 アストが勝ったのならばそれで良い。

 だが先の状況が脳裏に蘇り、最悪な事態を脳内で思い描いてしまう。そんなイメージを振り払い、巧はひたすらに走り続ける。

 再び角を曲がり、その先に探していた姿を捉える。


「…っ!」


 ようやく見つけたアストは地面に倒れていた。その近くにはジャスティスが立ち、倒れ伏すアストを見下ろしている。

 遠目でもアストがピクリとも動かない事を確認した巧は、自身の頭に血が上るのを感じる。木材を手にした拳に力が入り、メキリと小さな軋みを上げる。


「おい、たく───」


 その様子を間近で感じ取った61が制止するよりも速く、巧は強く地を蹴り走り出す。

 アストを見下ろしていたジャスティスが、こちらへと全速力で向かってくる巧の存在に気付いた。その手にした木材を確認するや、迫る巧を迎え撃つようその場で身構える。

 それに対し、走りながらも木材を両手で握り右肩に背負うように構える巧。

 巧の足が疲労により悲鳴をあげる。だが知った事じゃないと、巧は痛みを無視して走り続ける。

 駆ける巧が互いの距離を瞬く間に縮める。


「ああああ!」


 走りながら絶叫にも似た雄叫びを上げ、巧が木材を勢いよく振り下ろす。その狙いは的確で、上手くいけば相手の肩から首の間に命中していたであろう。


「ふんっ!」


 その木材が粉々に爆ぜる。

 手にした新聞紙を使うことなく、ジャスティスは己の左腕の拳一つでその木材を受け止め粉砕する。細長い木材の真ん中が破裂したかのように、大小形の違う木屑を撒き散らしながら二本に砕かれる。

 手にした武器が砕かれ、巧が歯を食いしばりながらも素早く次の行動へと移る。

 真横へと跳びながら、砕かれて短くなった木材をジャスティスへと投げつける。ジャスティスは先と同じ左の拳で、投擲された木材を払い除ける。


「木でダメなら…!」


 横へと跳んだ巧は、足元に落ちていた鉄パイプを拾い上げ、再びジャスティスへと迫る。


「君とやりあうつもりはないぞ」

「俺にはある!」


 ジャスティスの言葉に、巧は怒声と鉄パイプで答える。

 拾った鉄パイプを両手で握ると、右脇から力任せに横へと薙いだ。ジャスティスの頭に被るテレビ目掛け振るうも、それは鉄パイプが空気を押し退ける鈍い音と共に盛大な空振りとなる。

 ジャスティスが距離を取るために巧から退き、そのまま数度跳ねる様に後方へと下がる。

 飛び退いたジャスティスを一度睨みつけ、巧は傍らに横たわるアストへと視線を向ける。仰向けで倒れこむアストの容体は分からないが、微かながらに小さな息遣いが聞えてくる。


「…大丈夫か?」


 巧の呼びかけにアストの腕がピクリと動く。

 両手に力を込め握り拳を作ると、震える腕で上半身を起こす。腹部に貰った蹴りのダメージが大きいのか、アストはそれ以上立ち上がる事が出来ず四つん這いの体勢になる。

 巧が肩を貸すため身を屈めようとする。だが正面に立つジャスティスの存在がそれを邪魔をし、鉄パイプを構えたまま睨み合いとなる。

 だがジャスティスは肩を竦め、手にした新聞紙を構える事なく右肩に背負うような姿勢で見つめている。その姿は乱入した巧に対しての呆れと、相手にもならないという意思の現われでもあった。


「来ないのか」


 鉄パイプを構える巧が、すり足で前に出る。


「言っただろう、君とは戦わない。私の敵は一般人ではないからね」


 戦力にもならないと、ジャスティスはため息をつく。

 確かにジャスティスからして見れば、唯の鉄パイプを持った巧などでは相手にもならないだろう。それは巧自身も理解していた。

 アストを地に屈させる事が出来るような相手と正面からぶつかり合う力など、巧は持ち合わせていないのだから。


「何かいい手はないか?」

「勢いよく飛び出してそれか…」


 正面に仁王立ちするジャスティスを睨んだまま、巧は小声で61に話しかける。表情は険しいままだが、その内心は目の前の相手にどう対応すべきかと考えを巡らせ焦っていた。

 61が周囲を探査するが、開発中の地区ということもあり活用できそうなものは周囲にある原始的な得物が殆どだった。

 情報網が整備されていないこのような場所では自慢の探査能力は上手く活用できずに、加えて周囲に乱立された建設途中の建物が壁となり妨害され、探査の有効範囲は著しく低下していた。

 ジリジリとにじり寄る巧だったが、打開策となるべき案も手段見出せずにいる。


「くそっ、あまり踏み込む巧。今考えてる」


 61の言葉に、巧は奥歯を噛む。緊張により鼻息は荒く心臓の鼓動が早まり、鉄パイプを握る手にも力が増す。

 やがて、ジャスティスが一歩踏み出す。その動作に巧はビクリと身体を竦ませるが、負けじと一歩踏み出す。


「震えているじゃないか」

「怖いからな」


 ジャスティスの言葉に答える巧。そんな巧の返答を、ジャスティスは鼻で笑い飛ばす。


「一般人ならヒーローに守られていれば良いんだよ」


 ジャスティスが駆ける。巧の右側へと回り込むよう弧を画きながら迫る。

 巧は鉄パイプを振るい上げ、迫りくるジャスティスの待ち構える。互いの距離が縮まり、巧が半歩踏み込む。目と鼻の先にまで迫ったジャスティスの頭目掛け、鉄パイプを振り下ろした。


「…!?」


 鉄パイプが虚しく空を切る。

 先ほどまで視界に捉えていたはずのジャスティスが消える。一瞬何が起こったのか分からずに巧は硬直する。


「左だ!」


 61の声に反応し巧が身体ごと左を向く。

 振り向くその最中。大地を上に夜空を下に、突如巧の視界が反転した。

 そのまま受身も取れず、巧は背中から地面に叩きつけられる。衝撃で鉄パイプを手放し、脳が痛みを認識すると悲鳴を上げるよりも早く激痛が全身を駆け巡った。

 振り下ろされた巧の鉄パイプを交わしたジャスティスは、神速とも呼べる速度で巧の左側面へと廻り込む。そして巧がこちらを振り向くと同時にその腕を掴み投げ飛ばしたのだ。


「だから言ったろう」


 正に赤子の手を捻るかのような行動に、ジャスティスは己の足元でもがく巧を詰まらなさそうに見下ろす。


「敵じゃないとね」


 見下ろす巧をまるで哀れむかのような声色で呟く。

 未だ苦しむ巧に触れようと、未を屈め手を伸ばすジャスティス。そんな彼を前にし、巧は苦痛に顔を歪ませながらも、その腕が自身に触れるのを待った。


「おをっ…!」


 ジャスティスが巧の肩に触れた瞬間、巧は握り締めていた砂利をジャスティスの顔にあたるテレビ目掛け投げつけた。

 眼前に広がる無数の砂と小石に、ジャスティスは思わず右手で両目を庇う。僅かながらも、ジャスティスの気を逸らす事に成功した。

 ジャスティスの動きが止まった事を確認すると、巧は素早く起き上がり体勢を低くしてジャスティスの腹部目掛け体当たりする。両手でジャスティスの腰に抱きつくよう押さえ込み、足に力を入れ身体を前へと押し出す。

 屈んだ体勢だったこともあり、ジャスティスは巧の体当たりを交わす事も出来ずにバランスを崩す。そのまま足がもつれてしまい、二人は地面へと倒れこむ。


「何がヒーローだ! ふざけるな!」


 巧は倒れこむジャスティスの身体に馬乗りになり、右腕の拳を強く握り締める。渾身の力を込め振り下ろすその拳が、ジャスティスの顔であるテレビに叩きつけられた。

 その瞬間、ジャスティスの身体がビクリと痙攣するかのような反応を見せる。


「っ…ぁあ…!」


 殴りつけた巧の拳が赤く腫れあがり、所々が擦り切れたかのように血が滲み出ていた。素手で殴ったのだから当然とはいえ、思った以上のその強度に拳が悲鳴をあげる。

 痛みに顔をしかめながら、拳を庇うよう自身の左手で押さえる。

 思いもよらぬ一撃で放心していたジャスティスの視線が、ゆっくりと巧へと向けられる。恐ろしいほど緩やかな動作で巧へと片腕を伸ばし、自身を殴りつけた巧の右腕を掴んだ。

 振り解こうともがく巧だったが、信じられないほどの握力で腕を締め付けられる。


「ヒーローを、殴るだって…?」


 静かに呟くその声は震えていた。

 巧を締め付ける腕の力は徐々に強くなり、まるで万力にでも挟まれたかのような痛みは巧は絶叫させる。メキメキと骨が軋むような音さえ聞こえてくるその力は、おそらく想像を絶するほどの痛みだろう。

 やがて馬乗りになる巧を投げ捨てるように、掴んだ腕を横へと払い退ける。その力に引っ張られ、巧は再び地面へと投げ出される。


「なるほど…。これは参ったな」


 ゆらりと力なく立ち上がるジャスティス。その両腕をだらりと脱力させている。


「どうやら君達は、あの女に洗脳でもされているようだ」


 ジャスティスは、先ほど投げ飛ばした巧の下へと歩み寄る。地面に横たわり右腕を押さえて苦痛にもがく巧の髪を掴む。

 掴んだ黒髪を引っ張り、強引に巧の視線を上げさせる。

 巧の苦痛に歪む表情と敵意に満ちた瞳を前にし、ジャスティスは顔を近づけ囁くように呟いた。


「でなければヒーローに対して、こんな事出来るはずもない」


 次の瞬間、巧の顔面を地面へと叩き付ける。

 くぐもった悲鳴を漏らす巧。鼻の骨は折れていないが、むせ返るような鉄錆び臭い血の匂いが口内と鼻腔に広がった。

 髪を掴まれ必死にもがくその姿を、ジャスティスは見苦しそうに鼻で笑う。


「ヒーローとは完全無欠! こんな私があのような仕打ちを受けるなど、悪人に唆されたに違いない!」


 巧の顔を地面にこすり付けるよう、ジャスティスがゆっくりと腕を動かす。

 そんなジャスティス目掛け飛翔する矢印。

 それに気付いていたジャスティスは巧の顔を地面に押さえつけた姿勢のまま、右手に持つ新聞紙でその先端を薙ぎ払う。しかし弾かれた矢印の先端は、途中で軌道を変え再びジャスティスへと伸びる。

 完全な視覚外からの攻撃だが、ジャスティスはそれが見えているのか、巧を開放すると振り返り様に新聞紙を横に薙ぎ打ち落とした。

 ジャスティスの視線が、ゆっくりと矢印が飛んできた方向へ向く。


「君は騙されているんだぞ!」


 向けた視線の先には、震える足で立ち上がったアストの姿があった。腹部を押さえ肩で小さく息をしているが、手にした矢印は真っ直ぐにジャスティスへと向けられている。

 なんとも懸命な姿にジャスティスはせせら笑う。


「皆を騙してヒーローにけしかけるなど、まったく許せないな! ふっははははっ!」


 ジャスティスは声高に叫ぶと今度は突然笑いだす。ボイスチェンジャー越しのその笑いは酷く耳障りで、空を仰ぎ見るように身体を仰け反らせるその姿は、まるで心底痛快であると体現していた。

 ひとしきり笑った後、仰け反ったままの姿勢でぴたりと笑い声が止む。

 ゆっくりと上半身を起こすように顔を上げ、ふらつくアストに顔を向ける。

 アストが身構える。

 巧に背を向け、ジャスティスが大きく一歩踏み出し前に出る。左右の足を交互に出して前進するが、その動作は先ほどと打って変わりひどくゆっくりだった。フラフラと身体を揺らしながら進むその姿は不気味の一言に尽きる。


「この…!」


 巧が立ち上がり、ジャスティスの背を追った。

 歩くよりも遅いその背に追いつくのは容易であり、巧はジャスティスの肩を掴もうと左腕を伸ばす。


「───!?」


 肩に触れるその瞬間、巧の視界からジャスティスの姿が消える。

 その事に驚くよりも早く、巧は腹部にめり込むような強い衝撃を受ける。胃の中の物が全て逆流するような衝撃に巧は悲鳴もあげられず息を詰まらせる。

 背を向けていたにも関わらず、ジャスティスは後方より迫っていた巧の気配を察知していた。その巧の姿を確認するまでもなく突き出された左腕を屈んで回避し、その姿勢から素早く反転すると巧の腹部目掛け左拳を放った。

 その一瞬の出来事により、巧は防御する間もなく地面へと崩れ落ちる。


「少し寝ていたまえ」


 前のめりに倒れこむ巧の左腕をジャスティスが捕まえ、巧を背負うように担ぐと勢いをつけ空へと放り投げた。

 自分が何をされたのかも分からないまま、空と大地がぐるぐると目まぐるしく回転する感覚に巧は頭の中が真っ白になり思考が停止する。

 やがて高度が下がり、巧の身体が重力に引かれ地上へと落下する。弧を画くように飛ばされた先には、積み重ねられた木材の山。


「だめ…!」


 アストが巧を受け止めようとその落下地点へ向かう。

 しかしその進路上に、いつの間にかジャスティスが立ちはだかり行く手を遮っていた。

 アストは構わず前進し、新聞紙を構えるジャスティスに正面から立ち向かう。手にした矢印を斜めに振り下ろすが、いとも容易く切り払うジャスティスに後退を余儀なくされる。

 やがて巧の身体が派手な落下音と共に、積み重ねられた木材の山に背中から落下した。多数の木材が折れ曲がり、細かな木屑を飛び散らせる。


「がっ───!?」

「息をしろ巧!」


 背中全体を打ちつけ意識を手放しかけるが、全身を駆け巡るその激痛にそれすら許されず声にならない悲鳴を上げる巧。

 61が叫ぶその声も、巧にはぼやけたかのように聞き取る事が出来なかった。

 苦しそうに口を開け酸素を取り入れようとするものの、痺れるような痛みで全身が動かずその単純な行動さえもままならない。肺の内側が焼け焦げるかのような感覚に、巧は胸と喉を押さえる。

 アストが巧の落下した地点へと顔を向ける。


「余所見はいけないな」


 だがそんな彼女などお構いなしに、ジャスティスがアストの懐へと潜り込む。

 険しい表情で、正面から放たれる新聞紙を受け止めるアスト。だが震える足に力が入らず、受け止めながらも衝撃で後方へと弾き飛ばされてしまう。

 巧を心配する余裕などなく、アストは自分へと向かってくるジャスティスの攻撃に備える。







「おい石垣、一体どういう事だ」


 開拓地域の入り口に停まる黒いワゴンまで戻ってきた大男が、巧から預かったコートを出迎えた石垣の顔面に投げつけ怒鳴る。

 そのコートのポケットに入った携帯電話にでもぶつかったのか、石垣がコートを両手で剥ぎ取ると、赤くなった額を摩る。投げつけられたコートを両腕で抱えるように持ち、石垣は自分に対して怒鳴る大男に完全に萎縮してしまい目を逸らし口篭る。


「う、上からの指示なんですよ…」

「それはさっきの連絡で聞いた」


 大の大人である石垣よりも、一回り大きいその背丈とがたいを眼前にし、石垣は冷や汗を掻きながら顔を背ける。上からずいっと見下ろすように大きな顔が、納得できないと言った表情で石垣を睨みつける。

 強面でもあり威圧感のあるその視線にばつが悪そうに石垣が頭を掻き毟る。


「萩李さんからの緊急連絡なんです。危険だから、二人以外は絶対に近づけるなって」


 数十分前。

 不審者の報告を受け、石垣はすぐさまその事を萩利へと伝えた。

 報告を聞いた萩利は何を思ったか、その者との交戦はアストと巧の二人に任せろ。と言い出したのだ。

 当然石垣もこの事に対しては萩利に抗議した。連絡役である石垣だが、同時に巧の護衛も任されている身としては、本人を危険な目に合わせ一人ワゴンの中で缶詰状態というこの現状も納得できないのだろう。


「報告を聞いた限りじゃ、現状の部隊じゃ足止めにもならないよ」


 その通りだった。

 ジャスティスが開発地区へと侵入する際に接触した部隊は、いくら不意のとはいえ相手にもならず一方的であった。人間離れした反射神経と速度は、並大抵の人間では歯が立たない事は石垣も見知っている。


「無駄に被害を増やす理由はない。大事な人員をこんな事で失っては、今後の活動に大きな悪影響にもなる」

「だからって、彼等を危険にさらす事は…」


 尚も食い下がる石垣であったが、萩利はいつもと変わらぬ口調でそれを却下する。


「良い機会だ。一度アレを見ればそんな気も失せるだろうね」


 その会話を最後に、萩利は電話を切った。

 結局石垣はその指示に従い、バックアップとして送った者達へ引き返すよう指示する破目になり現在に至る。

 何を考えているかまったく分からない上司に現場では新米という立場柄、強く出られない石垣は非常に参っていた。胃がきりきりと痛むような感覚に、石垣の顔が少し青ざめる。

 見下ろす大男も石垣にあたっても仕方がないと、やり所のない苛立ちに舌打ちする。


「と、ともかく!」


 重苦しい空気の中、石垣が話を進めようと口を開く。

 目の前の大男の後ろに立つ雛乃の方へと目を向ける。彼女の左右には二人の男が立ち、彼女を警戒している。


「白咲雛乃ちゃんだっけ? 彼女を指定された場所までお願いします」


 石垣が指示を出す。

 二人の男がそれぞれ返事をし、雛乃に歩くよう言う。

 雛乃の方は、完全に退路を絶たれた事への絶望か、大きなため息と共にガクリと両肩を落とし項垂れている。せっつくように男の一人が雛乃の背を押し、雛乃がその男を睨みつける。その態度とは裏腹に、その瞳にはまだ強い意志が宿っている。

 男は一瞬たじろぐが、雛乃は詰まらなそうにそっぽを向き歩き出す。


「どう見たって、ただの女の子なのにな…」


 自分よりも年下であろう少女の小さな背を見送りながら石垣が呟く。

 その時だった。

 鼓膜を破らんばかりの轟音が、その場にいた全員の耳に届く。


「な、なんだ?」


 音を聞いた者全てがその方向へと顔を向ける。

 開発地区の奥から煙のようなものが立ち昇り、先ほどよりも少し小さな、それでも十分に激しい破壊音が響いてきた。


「一体何が起こってるんだ…」


 あれが萩李の言っていた光景だろうか。と、石垣は心の中で思った。







「早く立てよ巧。でないとお前、死ぬぞ?」


 巧が意識を手放さないように語りかけ続ける61だったが、巧は未だに動けずにいた。


「ったく。冗談じゃないぞ」


 コートのポケットに納まる61は、誰にともなく忌々しそうに呟いた。

 状況はまさに最悪そのものだった。

 自らヒーローを自称する、ジャスティスと名のるあのテレビ人間の所持するデータはノイズが多く判別出来ない。

 そのジャスティスに尚も立ち向うアストだが状況は劣勢。よく持ち堪えてはいるが、ジャスティスはその一歩先を往くかのように届かない。まさにジリ貧であった。


「お前も無茶しやがって」


 その言葉が、果たして心配かそれ以外のものかは分からない。

 少なくともこの状況が自分にとって不都合であることには違いない。活路を見出すため、61は一旦ジャスティスの解析を中断する。


(なにか使えるものがあればな…)


 周囲を探査し利用できる物を探す。

 しかしそう都合のいい物はなく、使えるのは建築資材である細い鉄骨や木材の類だけ。そんなものが通用しない事は当に知っている。


(なにか、なにか、なにか…!)


 焦りに次第に苛立つ61。

 付近で繰り広げられていた戦闘は、次第に決着の兆しが見え始めていた。

 決着がついてしまってはもう取り返しがつかない。持ち主である巧はダメージにより身動きが一切取れないこの状況は、61にとって非常に都合が悪かった。

 おそらく61の存在にも、ジャスティスは感づいているだろう。今でこそ無事でいるが、人ならざる力を持つという意味で何時狙われてもおかしくはないのだから。

 現状の探査範囲では不毛と覚り、61が探査範囲を拡大させる。

 一時的ではあるが今の自分のスペックを超えた処理能力に、人間でいう頭痛のようなものを錯覚する。感じるはずのないその痛みを認識し、61は忌々しそうに唸る。

 やがて自身の姿にノイズが生じる。

 それさえも無視し、自らの勝機を探す。


「───!」


 そして、それを見つけた。

 通信網も電気も未だ整備されていない開発地区で見つけたそれは、おそらくこの場において最も強力な”武器”足りえるものだった。

 携帯電話の画面に映るドクロマークが大きな笑みを浮かべる。それは勝ち誇るかのような表情で、それへと接続を開始した。


「巧」

「…」


 61の声に返事はない。だが、61は構わず語りかける。


「喜べ。お前の運はまだ尽きていないぞ」


 思わず零れそうになる笑いを押し殺しながら、61が不適に言う。


「だから立て巧。お前に勝つための道具をくれてやる」








「これで最後だ!」


 ジャスティスの猛攻が続く。繰り出される攻撃を紙一重で交わし続けていたアストだが、疲労とダメージにより、ついに膝を折る。


「よく頑張ったが、これがヒーローとそうでない者の差だ」


 体力的にも限界が近いアストとは対照的に、ジャスティスは呼吸さえも乱していない。ボイスチェンジャー越しのその声は余裕に満ちており、ポーズをとり己の勝利を確信する。

 アストはまだやれると言いたげに立ち上がろうとする。しかし震える足には力が入らず、少し腰を浮かせただけでも倒れそうになるほどだった。


「操られているとは言え、君もそんな事に力を使ってはいけない」


 なんとも的外れな事を言いながらも、アストの鼻先に新聞紙の先端を突きつけるジャスティス。


「…」


 その先端を一瞥しアストが顔を上げる。互いの視線がぶつかり、睨み合いとなる。

 左右の色の違う感情を感じさせない瞳で睨み、その姿がジャスティスの顔に被ったテレビの画面に映りこむ。


「その力だけ、制裁していくとしよう」


 アストの鼻先に突きつけていた新聞紙がゆっくりと持ち上がり、ジャスティスは大きく振りかぶる。

 最早動く事もままならないアストは、やがて訪れる衝撃に顔を俯け両目をそっと瞑る。

 先ほどまでの激しい戦闘が嘘のように静まり返った建設現場に、一陣の風が吹く。

 微かに、その風に乗って音が聞えてくる。


「…ん?」


 その音に気付いたジャスティスが反応する。やがてアストも気付いたのか、顔は上げずに目線だけで周囲を見渡す。

 地を這い引き摺るよう音と共に、機械の駆動音が聞えてくる。徐々に大きくなるその音は、着実にその場に近づいていた。

 ふと、アストが巧の方へと視線を向ける。

 だがそこにいるはずの巧の姿はなく、在るのは拉げた木材の残骸の山だけだった。

 やがて音が大きくなる。そして二人は、その音の発信源を目撃する。


「パワーショベル?」


 突然現れたそれをジャスティスは訝しがる。アストの側を離れ、なんとも奇妙なそれに歩み寄る。

 黄色い塗装が施された一台の小型パワーショベルが、ゆっくりと二人に近づく。運転席には操縦者らしき人影はなく、それは独りでに動いていた。

 キャタピラの駆動音と唸るようなエンジン音。力強く伸びたアームの先端には、溝掘り用にバケットを備え付けている。

 何事かとジャスティスが眺めていると、突如パワーショベルのアームが動いた。

 次の瞬間、パワーショベルのキャタピラが高速回転し加速する。パワーショベルが真っ直ぐにジャスティス目掛け前進した。

 アームの先端に付いたバケットの底を前に突き出し、無人のパワーショベルがジャスティスを押し潰そうとその巨体で突進する。


「お、おお!?」


 突然の事に、さしものジャスティスも驚愕し動きが鈍る。

 正面から迫るバケットの底は、例えるならば鉄球と同じだ。加速をつけ正面からぶつけられるそれを喰らえば、生身の人間ならば耐え切れずに潰されてるだろう。

 だが受ける者は常人ではない。

 足こそ動かなかったジャスティスだが、右手に新聞紙を持ちながらも両腕を前へと突き出し、あろうことかパワーショベルの突進を受け止めた。


「ぐぬぉぉ…!」


 パワーショベルが尚も前進しようとする。だがバケットを受け止めたジャスティスに阻まれ、回転するキャタピラは砂煙を巻き上げながら地面を擦る。

 しかし機械相手ではジャスティスも力負けするようで、受け止める両手は膝を曲げ踏ん張る足元は徐々に押されている。

 突然の出来事にアストも顔を上げその光景を目にする。

 やがてその視線が、パワーショベルの後にいる人物へと向けられる。ジャスティスからは見えていないようで、パワーショベルの巨体が影となり死角となっていた。

 そこに立っていたのは巧だった。だがその表情にはまるで感情がなく、目は何処か虚ろだった。


(なに、あれは?)


 巧の手にしている物を見て、アストは眉根を寄せる。

 本体から伸びた細長いロッドは螺旋状で、先端が丸みを帯びた削岩機を持っていた。だが電源ケーブルの先は外れており、そのままでは使えそうにもない。

 61の探査能力により見つけた物。それはパワーショベルと手持ちの削岩機だった。

 だがここで重要なのは、61のお目は巧が手にする削岩機の方であり、パワーショベルに至ってはオマケでしかなかったという点である。


「く、ふふっ」


 こんな状況下で、一人笑う者がいる。

 61だ。もはや溢れ出る笑いを抑えきれず、堰が切れたかのように下品な笑い声が周囲に木霊した。


「ゲェアッハハハ! さあ、勝利をくれてやるぞ巧」


 61の声に反応し、巧が空高く飛んだ。おおよそ常人離れした跳躍力で、パワーショベルを跳び越える。


(今のは、磁力操作…?)


 巧が跳ぶ直前、手にした削岩機の先端で地面を叩いたかと思うと、次の瞬間には空へ撃ち出されるかのように高く舞い上がっていた。

 その時削岩機のロッド部分に光が走り、同時に空気が爆ぜる甲高い音を放ち帯電する様を目撃したアストは、それが61による力の行使であると即座に見抜いた。

 

「なんとっ!?」


 ジャスティスはそこに至り始めて巧の存在を認識する。

 巧はパワーショベルを跳び越え、その高度が徐々に下がる。その着地点には、パワーショベルのバケットを受け止め続けるジャスティスがいる。

 巧が右腕を突き出し、削岩機の先端をジャスティスへと向ける。


「な…めるなあ!」


 ジャスティスは四肢に力を込め、受け止めるパワーショベルのバケットを押し戻し始める。しかしそのままでは終わらず、ジャスティスは右手をバケットの底から離すと左腕だけでパワーショベルの巨体を押さえ込む。


「おぉおおお!」


 ジャスティスが吼えると同時に、右腕の拳を前へと突き出す。

 金属が拉げる鈍い音と共に、ジャスティスの拳がパワーショベルのバケットへと突き刺さる。拳を中心に分厚い鉄板がへこみ、パワーショベルの重たい巨体が浮き上がると後方へと弾き飛ばされた。

 小型とは言え人の何百倍の重さを誇るパワーショベルが轟音と共に地面へと崩れ落ちる。

 力尽くでパワーショベルを退かせたジャスティスは、気を抜く間もなく自身目掛け降下する巧を待ち構える。


「さあ行け、打ち倒せ!」


 61が叫び、ジャスティス目掛け尚も降下する巧。

 

「アクセス!」


 巧の手にする削岩機に変化が現れる。

 本体部分が空中で分裂したかと思えば、まるで巧の右腕に吸い寄せられるかのように装着される。内部のコードのような物を腕に絡ませ、瞬く間に削岩機と巧の右腕が一体化した。

 その光景を目撃したジャスティスとアストは驚愕した。


「うあああああ!」


 巧が叫ぶ。腹の底から声を発し、渾身の力を込め右腕を突き出す。その右腕に装着された削岩機のロッドが唸り、高速で回転を始める。


「ドリル!?」


 それを見たジャスティスがそう形容する。

 螺旋状に回転するその様は正にドリルだった。ロッドの部分が細長いとはいえ、その回転音はまるで飛行機の動力でも使っているのか、凄まじく高い音だった。

 ジャスティスは負けじと新聞紙を構え巧を待ち構える。

 互いの距離が更に縮まる。

 迫りくる巧の右腕を、ジャスティスの新聞紙が捉えた。甲高い音が鳴り響くも、その決着は容易く訪れた。


「───!」

「お、おお!?」


 回転するロッドの先端が、ジャスティスの手にする新聞紙を真ん中から食い破り細切れにする。細かくなった紙屑を撒き散らしながら、ロッドの先端は更に突き進む。

 武器を失ったジャスティスが体勢を崩し、その眼前に回転するロッドの先端が迫っていた。


(避け───)


 身体が動くよりも早く、ロッドの先端がジャスティスの頭に被るテレビを正面から捉える。

 衝撃により、ジャスティスの身体が宙へと浮かび後方へと吹き飛ばされる。地面にテレビの頭を数回打ちつけ転がるように大地に沈む。

 巧が勝利を確信し、ロッドの回転が緩やかになる。と同時に力が抜けたのか、しりもちを付くかのようにその場に座り込んでしまう。


「…くっ、成る程ね」


 しかし吹き飛ばされたジャスティスが、ゆっくりと立ち上がる。頭に被るテレビの画面には大きな亀裂が入っていた。

 まだ向かってくる気かと、巧は立ち上がろうとするが腰と足に力が入らない。


「その力相手では、今は突破できないな…」


 だが、どうやらジャスティスにはこれ以上戦闘を続ける意思はないらしい。

 黒い全身タイツは今や砂塗れであり、それを二、三度手で払う。


「今日の所はここまでのようだ。だが私の正義は、誰にも止められないぞ!」


 そんな捨て台詞を残し、ジャスティスは背を向け走り去る。

 その後ろ姿はあっという間に小さくなり、夜の闇へと消えて行った。


「逃げたな」


 61の言葉に、巧の緊張の糸が切れる。精根尽き果てたかのように、巧は座り込んだ姿勢のまま、身体をやや前のめりにして気を失った。

 右腕に装着され一体化していた削岩機が、巧の腕から離れ元の形状へと戻ってゆく。


「ったく、逃げ足の早い奴だな」


 ジャスティスを追跡していた61だが、あっという間に探査圏外となる。その速さに呆れるような感心するかのようにぼやく。

 だがそんな言葉とは裏腹に、61の気分は高揚していた。

 力を出し惜しみなく振るえる事への満足感は61にとって未知の快楽であり、それに対して己が充実していると明確に理解していたからだ。

 それはもはやプログラムなどではなく、人間の持つ感性そのものだった。

 気を失う巧と、充実感で満たされる61に歩み寄る影が一つ。


「…」


 アストだった。巧の隣に座り込むと、その首筋に手を当てる。


「死んでないぞ」


 脈を確認するアストに61が言う。

 首筋に触れていたアストの手が、目を閉じ眠るように気を失う巧の頬へと触れる。砂や多数の切り傷で汚れ、それを一つ一つ指で拭いでいく。

 意識のない巧の表情は、疲れはあれど安らかだった。そんな表情を見詰めて、アストは何を思うだろうか。

 静寂の戻った冬の寒空の下。

 二人が石垣達に保護されたのはそれからすぐの事だった。






 深夜。薄暗い自分専用のオフィスの中で、萩利は窓に映る外の景色を眺めていた。

 高い外壁で外周部と隔絶された中心部だが、一際高いビルのその一室からは外周部に広がる居住区の様子まで見渡す事が出来た。

 静かなオフィス内に電話の呼び出し音が鳴る。

 萩李は視線を窓に映る景色から、デスクの上に置かれた備え付けの電話へと向け、受話器を取る事無くボタンを押す。ハンズフリー機能を持つ電話はそれだけで会話が可能であり、萩利は再び外の景色へと視線を戻した。


「石垣です。巧君とアストちゃんの保護、完了しました」

「そうか。二人は無事かな?」

「怪我してます。巧君に至っては気絶してるようで、早く搬送しないと…」


 電話に背を向けたまま、萩利はチェアへと腰を落とす。長い足を組み、両手の指を合わせて組んだ足の上へと置く。


「一般の病院は不味い。中心部にあるこちらの施設に搬送するように」


 開発地区から中心部に移動するにはそれなりの時間が掛かるためか、石垣は返事を渋り即答しなかった。だが、やがて諦めたかのように短く返事をする。


「現場の方の処理は別の方で根回しするから、君達はすぐに撤収するように。いいね?」

「あ、はい。分かりました、けど…」


 なんとも歯切れの悪い石垣の言葉に、萩利はなんとなく予想はついていた。


「現場、相当に酷い状況なのかな」


 萩李の言葉に、石垣は少しの間を空けて答える。


「話に聞くよりも出鱈目でしたね…」

「だからそう言ったじゃないか」


 石垣の言葉に萩利は笑う。

 その後、少しばかりの指示を受けて石垣が電話を切った。萩李の予定通りならば、夜明け前にも事は全て事故として処理されるだろう。

 やけに広々としたオフィスの中で、萩利は一人くつくつと笑う。

 そんな最中、またも電話の呼び出し音が鳴った。

 チェアに座ったままの姿勢で電話の方へと身体を向ける。先ほどと同じくハンズフリーのボタンを押して電話に出る。


「失礼します。白咲雛乃が到着しました」


 電話口から聞えてくるのは、執事である犬塚の声だった。

 巧達が捕縛した雛乃が施設に到着したとの知らせを受け、萩利がチェアから腰を上げる。


「分かった。それじゃ安全を確保してから会おうか」

「畏まりました」







     ◆◇◆◇◆◇◆◇






 巧が目を覚ますと、そこは真っ白な窓のない小さな個室だった。

 簡素なパイプベッドに弾力性の良いマットと白いシーツの上に横たえられ、白い毛布を肩までかけられていた。

 見上げていた天井は白い正方形の形をしており、壁も床も同じく真っ白でなんとも居心地が悪かった。巧の横たわる正面の壁には、出入り口であろうドアがある。

 上半身を起こそうと腹部に力を入れる。


「痛…?」


 筋肉痛にも似た鈍い痛みを脇腹より少し上、丁度肋骨のある部分に感じた。手足にも同じような痛みが走り、肩や足など主だった所は動かせそうにもなかった。

 ベッドで横になっている巧は、とりあえず現状の確認をしようと考えを巡らせる。

 寝起きの頭でゆっくりと状況を整理し、巧はジャスティスと対峙した時の事を思い出す。


「…勝ったのか?」


 頭の中にはぼんやりと靄が掛かったかのような映像で、どうやらジャスティスを撃退した時の事はよく覚えていないらしい。


「勝ったぞ」


 巧以外に人気のない白い室内に響いたもう一つの声。唯一動かせる首を横へと倒し、声のした方向へと顔を向ける。

 パイプベッドの横には巧の腰程の高さがある小さな三段ボックスが置かれている。ボックスの中には何も入っておらず、上段に巧の携帯電話が置かれていた。


「おはよう巧。勝利の朝はどうだ?」

「…実感ないな」


 携帯電話から響く61の寝覚めの声に、巧は素っ気無く答える。

 そんな巧を見て、61はくくっと笑う。


「今はそれで良いさ。とりあえずもう少し休んでおけ」


 61の言葉に巧は返事をせず、顔を再び白い天上へと向けた。

 ぼうっとする頭は疲労からくるものか寝起きだからかは分からない。巧の両瞼が自然と閉じられ、やがて規則正しい寝息をたて始める。






 萩利とアストは、白衣を着た人物が多数行き来する長い廊下を並んで歩いていた。そこは巧の搬送された施設でもあり、病院というよりもその雰囲気は研究施設であった。

 巧が目を覚ました頃。萩李は様子を見ようと巧の元へと向かっている最中だった。

 二人の進行方向いる白衣の人物達は、その姿を確認するや皆一様に顔色を変え道を開けてゆく。

 その姿に目をくれる事もなく、萩李とアストは奥へと進む。


「どうだった。使えそう?」


 前を見ながら、いつものように白いスーツ姿と御面を被った萩李が、隣を歩くアストへと話しかける。

 その言葉に同じくアストも、いつも通りの感情を感じさせない表情を顔に貼り付け、視線も向けずに答えた。


「…有用性は、おそらく最高クラス」


 萩李の問いは、巧と61の事を指している。

 それは、あの場にいたアストがその力を間近で目撃し感じた意見だった。


「でも」

「ん?」


 まだ何か言いたい事があるのかアストは言葉を続けた。

 萩利が足を止め、隣に建つアストの方へと顔を向ける。


「…あの力は危険すぎる。対処するなら早い方がいい」


 感情のない色の違う双眸が萩李の顔を見上げていた。

 そんなアストを見て何を考えるか。萩李は少しだけ笑うとアストの頭に右手を乗せ撫でる。アメジストの髪が多少乱れるが、アストはそれを気にする様子もなく気持ちよさそうに目を細める。


「でもそれは今じゃない。少なくとも、PAL(パル)はまだ脅威とは言っていない」


 しかしPALという単語に対し、アストがいつもとは違う不快感に満ちた瞳で萩李を見上げる。

 アストの頭から手を離し、再び顔を前へと向け歩き出す萩李。少し遅れ、その背をアストが追う。


「楽しい事に事欠かないんだ。ならもう少し見ていようじゃないか」


 心底楽しそうに萩李が言う。

 やがて、巧の居る真っ白な部屋の前へと到着する。ドアノブに手をかけゆっくりと開く。


「やあ巧君、お元気? 起きてるかな」


 先ほどまでの真剣な様子は何処へやら、萩李はいつもと変わりない態度で室内へと入った。






遅筆なので気長にお待ちください。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


PS:これ以降もペースは落ちます、申し訳ありません。

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