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Episode 01






「最も良い組み合わせは力と慈悲、悪い組み合わせは弱さと争い。だそうだ」


 それは太く低い声で突拍子もない事を口走る。


「なにが?」


 その言葉に反応したのは、疲れの入り混じった青年の声。

 やや長めの黒髪、二つの翡翠色の瞳が長めの前髪から覗く整った顔立ちの青年。白いシャツに赤と黒のチェック柄のややくたびれたパーカーを着て、黒い長ズボンと同じく黒いスニーカー姿。

 そんな彼は呆気に取られながらも、口を小さく開け眉根を寄せる。

 怪訝な表情の青年を気にする事もなく、その声は再び語りだす。


「誰だったか、昔の人間はそんなことを言ったそうだ。弱者はその分を弁えず争い事を引き起こしやすい、だったか?」


 自分でもよく分かっていないらしく、言葉の主は最後に尋ねる様にして聞き返した。その言葉を聞いていた青年は、小さなため息を漏らす。


「それで、お前は何が言いたいんだ?」


 呆れと苛立ちが混ざった表情と声色で、青年は鬱陶しそうに答える。

 青年の心情を知るよしもなく、太く低い声の主はマイペースに話しかける。


「この情けない状況を言葉で表してみたんだが、違ったか?」

「違ってるようで違ってない」


 相手にするのも億劫になり、青年は答えてため息をつく。

 胡坐をかき床に座る青年は、自分の背にある冷たい木製の壁に寄りかかる。ギシリと壁が軋みをあげ、青年は視線を上げる。同じく木製の、所々傷んで腐り落ちたボロボロの天井を見つめる。

 少年のいる木製の室内に窓はあるが、ガラスは割れその先に広がる景色は鬱蒼と覆い茂る木々ばかり。

 そろそろ一時間になるであろうか。

 青年は気が付くと、両手を手枷で固定されこの一室に転がされていた。気が付いた当初は声を張り上げ助けを呼んだが、それに答える声はなく。今やただ時が流れるのを待つばかり。

 幸いにも足は自由に動かせるが、手枷に繋がった鎖の先がこの部屋で一番太い柱に打ち付けられる形で固定されている。何度か試したが、とても人の力ではどうこう出切る物ではなかった。

 こんな目に合う理由は皆目見当がつかないが、この状況が青年にとって非常に不都合なことには違いない。


(…いや)


 あった。

 何故自分がこんな目に合うのか、その理由について一つ心当たりがある。

 青年の傍らに光を放ちながら、銀色の小さな鈴のストラップをぶら下げた飾り気のない折りたたみ式の携帯電話が一つ。くの字になり木造の床に落ちていた。

 青年とは別にもう一人、太く低い声はその携帯電話から発せられている。


「やっぱりこれは、お前のせいか?」

「さあな」


 携帯電話の声は素っ気無く答える。それが嘘か本当なのか、声色では分からない。

 これ以上の問いは無意味と悟り、青年は携帯電話から視線を外す。


「しかしまあ、情けないもんだ。女相手にこの様とはね」

「うっさい…」


 そう罵られるのは何度目か。青年は視線を向けることなく答える。


「それで、俺は一体いつまでこうしていればいいんだ?」


 天井を眺めながら、青年が携帯電話に問いかける。


「さあてな。それはオレにも分からんね」

「そうかよ…」


 このやり取りも、気が付けばおよそ十分刻みで行っている気がする。

 精神的に参った様子で青年は項垂れる。


「まあ心配するなたくみ。人生何とかなるものだろ」

「少なくとも今までこんな経験がないからどう切り抜けたものか、分からないんだがな」


 その状況を心配した素振りもなく、携帯電話から聞える声はまるで楽しんでいるかのようだった。

 巧と呼ばれた青年が項垂れながらも、横目に携帯電話に視線を向ける。

 携帯電話の画面には、紫色のドクロマークが映し出されていた。その画面上には、残り少ないバッテリー残量と圏外を示すマークが小さく点滅している。

 本日何度目か分からない溜息。巧はドクロマークから目を逸らし再び項垂れる。

 そんな巧を愉快と言わんばかりに、ドクロマークが言葉を発する。


「人生一度ぐらいはこんなスリル味わったって、罰は当たらないだろうさ」


 画面に映った紫のドクロマークがその言葉に連動し、ケタケタと愉快そうに笑う。

 その携帯電話は圏外ながらも、巧はその″携帯電話″と会話していた。






     ◆◇◆◇◆◇◆◇






 季節は秋から冬へと移り変わろうとしていた。

 見渡す限りの大海原は、どちらを向いても青い地平線が一直線に伸びている。

 そんな大海原の中心に、まるで野球ドームのような大型の建造物が一つ、存在していた。 そこは海上に建造された都市だった。本土から離れた位置にある離島を中心に、人が住めるよう埋め立てと開発を繰り返し、気付けば巨大な人工島として有名になった。

 ドーム状の中に敷き詰められた建物、そのドームの外周を大きな防波堤が囲む。ドームの天上は吹き抜けており、必要とあらば天上は閉められ都市を災害から防いでくれる。

 本土の陸地までは船でおよそ数時間。数多の企業が進出し、瞬く間に海上都市は発展していった。

 海上都市の中心部は企業関係の所有地として高層ビルが立ち並び、それらを囲うように居住ブロックが立ち並ぶ。企業所有地と居住ブロックの間には、安全面や情報漏洩などを防ぐため高い壁で隔てられている。

 居住ブロックの一角、集合住宅としていくつも並んだ白い外観のマンション。

 綾川巧あやかわたくみ。彼もまた、そのマンションの一室に住む大学生。

 両親は健在だがこことは違い本土に身を置く。実の姉が一人おり、このマンションはその姉が借りているものだ。海上都市の大学に合格した際、ここに住まないかと進められその好意に甘えた。

 そんな姉は、事情によりここには居ない。巧の一人暮らし状態だった。

 大学ではそう目立つこともない、極平凡な一期生だ。趣味は特にないが、料理はそれなりにこなせる。というただの若者。

 一つだけ、彼が普通と違う点を挙げるとするならば。


「起きろ巧。時間だぞ」

「…」


 喋る携帯電話を所有している、という点だ。

 通話相手とかそういう意味ではなく、″携帯電話″と話せるのだ。

 布団の中から腕だけを出して、枕元に置いてある目覚まし時計を掴む。寝ぼけた眼で時計の示す時刻を確認する。

 六時三十二分。

 カーテンの隙間から覗く空はまだほの暗く、室内もひんやりと肌寒かった。

 自分の包まっている布団がほど良い温かさに加え、室内の冷たい空気が彼を再び睡眠へと誘う。目覚まし時計を握ったままに布団の中でモゾモゾと動くが、一向に起きる様子はなかった。


「おいおいおい、健全な男子が二度寝か?」


 携帯の画面に映るドクロマークが見かねて再び声をかける。


「男子なら一日ちゃんと働いてみせろよ」


 しばらくの静寂。

 やがて布団に包まっていた巧がゆっくりと起きる上がる。うつ伏せ状態だったのか、四つん這いになるように身体を起こし、それから上半身をゆっくり持ち上げる。反対に腰は徐々に下がりベッドに座り込むような体勢となる。

 寝ぼけた眼を左手の甲で擦り、手にした目覚まし時計を定位置へと戻す。


「おはよう」

「…おはよう、61(ろくいち)


 ドクロマーク、61の朝の挨拶に巧は小さく返事をする。

 未だ眠りを求める身体が、欠伸となって巧に訴えかける。

 だがこの時間に起きて準備をしないと大学に遅刻してしまう。右眼を擦り、ギシリと軋む音を上げるベッドから起き上がる。


「うあ…」


 床の冷たさが、素足だった足裏から直に刺激となって全身を駆け巡る。

 その冷たさのおかげか、先ほどよりも目は冴えてきた。


「しかしなんだな。毎朝毎朝、ご苦労なことだよ」


 寝室に残された携帯電話から61の声が響く。それは洗面所へ向かっている巧の耳にも届いていた。


「仕方がないだろう。単位は必要だからな」

「じゃあ頑張らないとな」


 言われるまでもない、と内心思いながらも巧は無言の返事をする。

 顔を洗い、歯を磨いて、寝癖を直す。


(そろそろ切りたいな…)


 目の前に垂れ下がる長めの前髪を弄りながら巧は思った。

 着替えるために再び寝室へと戻ってきた。寝巻き代わりにしている厚手の長袖シャツを脱ぎだす。


「ストリップなら他所でやれ」

「見てんなよ」


 巧は脱いだシャツを61の映る携帯電話に放り投げる。自力で動く事が出来ないため、画面に映る61は抵抗することもなく降ってきたシャツに埋もれてしまう。


「汗臭いぞ」

「お前匂い感じないだろ」


 こんなやり取りも、最早日課となりつつあった。


(慣れってのは恐ろしいな…)


 ぼんやりとそんな事を考えながら朝食を済ませる。

 使った食器を朝の冷たい水で洗う。残っていた眠気はすぐに失せた。

 手早く身支度を済ませ、広間にある時計で時間を確認する。短針は七を指しているが、既に八へと指しかかっていた。

 慌てるような時間ではないがそろそろ出た方がいいだろう。自分にそう言い聞かせ、広間のソファーの背もたれにかけておいた、愛用の黒いジャケットを着る。筆記用具やノートなどを仕舞い込んだ茶色のリュックを右肩に背負うと、巧は足早に玄関へと向かう。


「今日はどうするんだ」


 ふと、ジャケットのポケットへ仕舞い込んだ携帯電話から61の声が聞える。


「明日は休みだからな。人通りが多い夕方なら、少しは見つけ易いんじゃないか?」

「そうだな」


 その間にも、巧は黒いスニーカーを穿きドアノブに手をかける。鉄製のやや重いドアを開けると、冷たい外気が風に吹かれ巧の身体から体温を奪う。

 寒さに小さく身震いしながらも、外に出てドアを閉める。戸締りも忘れずちゃんと鍵をかける。

 階段を使い階下へと向かうその時、上の階から降りてくる足音が聞えた。程なくして、その足音の主が踊り場に姿を現す。

 全身真っ黒のライダースーツ姿の男性。背は高く焦げ茶色の髪はオールバックに、その美麗な顔立ちがよく分かる。ライダースーツと同じく漆黒の瞳をしており、その右手には二つの大きさが異なるヘルメットを持っていた。

 ライダースーツの男性が、階段下の踊り場で自分を見上げている巧に気付く。その姿を確認した男性は左手を軽く上げ挨拶してくる。


「よう巧。今からか?」

「どうも。今からですよ」


 軽い挨拶を済ませ、ライダースーツの男性は階段を下りてくる。同じ位置で立つと、巧よりも男性の方が、頭一つ分ほど大きかった。

 ライダースーツの男性は、そうか、と短く返事をして歯並びのいい白い歯を見せながら愉快そうに笑みを浮かべる。


「先輩はそろそろ授業出ないと不味いんじゃないですか?」

「そうだっけ? 単位は結構余裕あったはずだぞ」


 男の名前は向坂蓮(こうさかれん)。巧と同じ大学に通う三期生、先輩だ。

 運動神経は抜群で、ご覧の通りの長身と端整な顔立ちなため女生徒からの人気もある。

 しかし周囲のそういった評価など気にした様子もなく、当の本人は非常に面倒くさがりであり色々と軽い言動が目立つ。あまり授業に出ないことでも有名で、その時はほとんどアルバイトをしているらしい。

 それでも単位は取れるあたり、頭はいいようだ。


「まあ、自分の勉強なんていつでも出来るさ。今はそれよりも…」


 蓮がそう言いかけた時、上の階からバタバタと階段を駆け下りる慌てるような騒がしい足音が響いてきた。

 上へ続く階段の踊り場に、その音の主は姿を現す。


「あっ、巧先輩。おはようございます!」


 朝の静寂の中、その元気で大きな声は余計に響いた。

 声とは対照的に小柄で、学校の制服である紺色のブレザーと白と青のチェック柄のスカートをはためかせた少女。毛先にクセのある若草色の短い髪をしており、二つの栗色の瞳は大きくまだ幼さを残した風貌。

 階段を駆け下りたその少女は蓮の隣に立ち、巧に向かって小さくお辞儀をする。


「おはよう香奈美かなみちゃん。朝から元気だね」

「はい。いつも元気っすよ!」


 巧の軽い挨拶に少女、向坂香奈美こうさかかなみは子供特有の満面の笑顔を見せる。

 隣に立つ蓮は手に持っている小さい方のヘルメットを香奈美に手渡す。


「遅刻するんだろ。早く行くぞ」


 左手を振って巧に挨拶すると、蓮は一人階段を下りて行った。その後ろ姿を現れた時と同じく、香奈美が慌てて付いて行く。

 階下との間にある踊り場に降り立った香奈美が、振り向いて巧を見上げる。


「巧先輩も。いってらっしゃいっす」


 笑顔で右手を上げて大きく左右に振る香奈美。巧もそんな彼女に笑顔でかえす。

 その間にも先に下りて行った蓮から、香奈美を呼ぶ声が聞えてくる。その声を聞いた香奈美はまた慌しくも階段を駆け下りて行った。


「いつもながら喧しいな」


 周囲に誰もいなくなり、ジャケットのポケットに収まる61が声を発する。


「元気でいいじゃないか」

「なんだ。ああいう少女が好みか?」


 くくっ、という含み笑いとからかう様な口調の61。巧は一瞬眉根を寄せ嫌な顔をするが、いつもの事と無視して階段を下って行く。

 一階に着いたところで、バイクのエンジン音が耳に届く。程なくして朝の静寂を裂くかのような重低音と共に、香奈美を後に乗せた蓮のバイクが走り去る。

 その後ろ姿を見送り、巧も自分の原付きが置かれた駐輪場へと向かう。

 自然と目線が空へと向む。小さな白い雲と澄み渡る青空が広がる。

 今日は晴れだ。






 巧にとって大学の授業は、正直なところ退屈だった。

 何がしたいわけでもない。何か目標があったわけでもない。夢は小さな頃にったような気もするが、忘れてしまった。

 大学には、ただ両親が進めたから入学しただけ。周囲に流される事が当たり前だった故に、今回もまた同じように流された。自分で何をやりたいか考えたことも当然あった。

 しかしそれが分からないために、また周囲に流される。ふと気付けば今の自分はここにいる有様だった。

 ある意味で現代の若者らしいその生い立ちだったが、そんな彼でも自分で決めて行動した事があった。

 両親と離れ、一人暮らしをする事。

 大学受験に際し何処か遠い所と決めていた。何処でも良かったが、巧は本土から離れたこの海上都市の大学を受験する事を決めた。

 父母に何か欠点があったわけではない。共働きだったため、家にいることは少なかったが人並の生活と幸せはあった。しかし巧にとって、その家は非常に窮屈だった。

 高校生になった時から、両親から離れ遠くの大学に通い自立すると心に決めていた。


「綾川? 綾川、聞いているのか」


 物思いに耽り、ぼうっと呆けていた巧を呼ぶ教師の声。その声に我に返った巧は、すみませんと短く謝る。周囲の生徒がそんな巧の方を見て、クスクスと微かな笑い声が聞えてくる。

 注目された巧はやや赤面し、机の上のノートへと視線を落とす。

 教鞭を取っていた中年の男性教師は咳払いし、再び大きなホワイトボードに向き直る。周囲の生徒達も静かに講義に集中しだす。

 ここは巧の通う大学の教室。広い教室内には、背広姿の男性教師と数人の生徒が思い思いの机と場所を陣取って講義を受けていた。


「怒られた」

「うっさい」


 机の片隅においた携帯電話から61が声をかける。他の生徒たちには聞えないよう、普段よりも声は小さい。

 そんな彼を邪険に扱いつつ、大学の備品である備え付けのノートパソコンと携帯電話をケーブルで繋ぐ。ホワイトボードに書き出される英単語をノートに写す傍ら、慣れた手つきでノートパソコンのキーを叩く。

 携帯電話の画面に映し出される61の姿が、ふっと消え失せる。しばらくするとノートパソコンの画面には紫色のドクロマーク、61の姿が現れる。


「やはりここの方が広いな」


 61は声を発する事はなく、代わりにノートパソコンの画面の隅に小さく文字が表示される。ノートパソコン内では声が出せないらしく、このように文章での会話が主なやり取りとなる。

 画面の中を縦横無尽に駆けるドクロマークは見ていてあまり気持ちのいいものではないが、巧はあえて黙っていた。


「見つかりそうか?」


 左手で器用にキーを叩く巧。

 程なくして返事が返ってきた。


「探査は続行しているが、やはり見つからないな」


 いつの間にかノートパソコンの画面の一角に、意味不明な大量の数字の羅列が映し出されていた。常人の目では追いきれない程の速度で数字が移り変わり、やがて左上の数字から順に0が記されていく。

 最後の数列に0が表示され、61は落胆のため息をついた。


「本当に見つかるのか?」


 61が何を探しているのか、ある程度の事は巧も知っている。

 本人曰く、61は超性能の次世代型AIプログラムだという。トラブルにより一部データが紛失してしまったため、元に戻るために巧の力を借りたいと言うのだ。

 先ほどのように、時折大学の回線を借りてはデータの探索を行っている。

 出合った当初は誰かのイタズラか、もしくは性質の悪いコンピュータウィルスかとも思ったがそのどちらでもないらしい。

 少なくともこちらの様子や顔色を窺うことは可能であり、尚且つプログラムらしからぬその流暢な喋りは、機械と呼ぶにはかけ離れた存在であった。


「さっきは何を考えてた?」


 探査をやめたのか、画面内で退屈そうにする61が巧に問いかける。先ほどの様子もどうやら見られていたらしい。


「昔の事を思い出してた」


 短くそう答える。巧の視線は授業ではなく、ガラス窓の先に映る空に向けられている。

 

「なあ、61」

「なんだ?」


 視線はそのままに、巧はゆっくりとノートパソコンのキーを叩く。


「お前は本当に姉さんを助けられるのか?」


 巧が小さな頃から慕っていた、実の姉がこの島で働いていた。

 両親は家を空ける事が多く、その際には姉が親の代わりのような存在として巧の面倒を見ていた。それは巧の中学時代も同様で、時には鬱陶しそうにしながらも内心はそんな姉を慕っていた。

 巧が高校に入学する際、姉は就職が決まり海上都市へと引っ越した。離れて暮らす二人は、時折携帯電話でメールのやり取りをしたり電話越しの他愛もない会話を楽しんだ。

 そんな姉が倒れたという報が入ったのは、巧が高校三年生になった直後だった。


「ああ。オレなら助けてやれる」


 原因は不明。仕事上での事故という話しだが、医師の話では症状がまるで分からないという。意識はあれど肉体的に酷く衰弱しており、自力で立ち上がることも出来ないと聞かされた。

 久々の兄弟の対面は、狭い病院の個室だった。姉は弱々しくベッドに横たわり、その手足はまるで老婆のように痩せこけていた。表情にも陰りはあれど、巧を見るや以前と変わらぬ笑顔で迎えてくれる。

 その姿が、酷く痛々しかった。

 61と出合ったのは巧が大学に入学してしばらく経った頃だ。姉が借りていたマンションに住み込み、ある意味で一人暮らしが叶った巧だったがその心中は何処か虚しかった。

 マンションの一室。いつも通り一人の夜。

 携帯電話に、メールの着信を知らせる音色が響く。

 内容のない真っ白なメールには、61という謎の添付ファイル。

 何故あの時添付ファイルを開いたのか、巧でも分からない。

 61は、失ったデータを集めれば原因不明の姉の病気も解析できるという。原因さえ特定出来れば治療法も見つけられる、とも付け足す。

 巧にとっては、それは正に願ってもない事だった。藁にでも縋る思いで、巧は61の言葉を信じ、協力を約束する。


「授業終わったぞ」


 ノートパソコンの画面に映し出された文章に気付く巧。既に画面内には61の姿はなく、いつもの携帯電話の狭い画面の中に戻っていた。

 午前の授業は今ので最後。巧はノートパソコンの電源を落とし、机の上に広げた筆記用具とノートをリュックに仕舞い込む。


「今日はもう終わりか?」

「午後の授業はいいんだ。単位はとってる」


 リュックを右肩に担ぎ、巧は教室を後にする。

 生徒が行き来する廊下を抜け、外へと出る。風は冷たいが朝よりは温かい陽気だった。






 夕暮れ間近の繁華街。明日は土曜のためか若者の姿が目立つ。

 そんな中、フードを被ったパーカー姿の巧は一人その喧騒の中を歩く。正確には一人ではないが、この相手を人と呼ぶべきかは疑問である。


「相変わらずここは騒がしいな」


 パーカーの胸ポケットの中で、見えているのかいないのか61が詰まらなさそうにぼやく。

 61曰く、静かな所の方が好みであるらしい。


「明日は土曜だしな。皆暇なんだろう」


 顔は正面を向いたまま、歩きながら巧は答える。

 そんな巧の横を、一組の男女が通り過ぎる。女の子の方が男の左腕に自分の右腕を絡めながら楽しそうに談笑している。

 そんなカップルをつい目で追いかけてしまう。


「ジロジロ見るなよ。恥ずかしい」


 61の茶化すような声で、巧ははっと我にかえる。軽く咳払いし足早にその場から立ち去る。

 ふと、カップルに見とれていたから、というわけではないが人込みの中から出てくるその存在に気付くのが遅れる。


「っと…」


 すんでの所でぶつかる事はなかった。

 人込みから出て来たのは、長く色あせた赤い髪をした少女だった。

 黒と赤の鮮やかなチェック柄にフリルの付いた黒いブラウス、同じく黒のスカートにはか細い銀のチェーン。白と黒の縞模様のタイツとパンプス姿と、全身黒い衣装姿だった。


「ごめんね。急いでたから」


 黒い衣装を身に纏った少女は気だるい口調で巧の顔を見上げて謝る。

 眠たそうな表情をしながらも、黄金色の綺麗な二つの瞳は真っ直ぐに巧を捉えていた。

 見る人が見れば正に美少女という形の少女を目の前にした巧は、こちらこそ、と短く答えて少女の横を通り過ぎる。


「照れてるのか?」

「照れてない」


 若干頬を赤らめる巧を察したのか、61の下品な笑い声は喧騒に掻き消される。自分でも柄じゃないと思いながらも巧は自然と足早になる。

 次第に遠のくその背を、赤い髪の少女は見送っていた。

 その口元には小さな笑みを浮かべ、視線が先ほどと変わり細く鋭くなっていた事に気付いた者はいなかった。






     ◆◇◆◇◆◇◆◇






「今日も収穫はないのか?」


 先ほどの繁華街の近く。

 人気のない自然公園の中で巧はベンチに座っていた。


「みたいだな」


 その隣にはくの字になった携帯電話の画面に映る61。時間がある時は海上都市の様々な場所に出向いて、61が探査と証して電波を送信している。

 二人が出会ってから何度もあらゆる場所で探査を行っているが、未だに61の失われたデータは発見できずにいる。


「そもそもだ」


 黙って61に付き合っていた巧だが、前々からの疑問を口にする。


「現実世界で電波を飛ばして本当に成果があるのか?」


 尤もな疑問だった。

 いくら人間らしいとは言え相手はAI、コンピュータだ。こんな外で電波を飛ばした所で失ったデータとやらが本当に見つかるのだろうか。


「簡単な事だ。今の世は情報化社会だろ? 見渡す限り、回線に不自由しないこの近代都市だ。入り口や覗き穴はそこかしこにあるからな」

「そうなのか?」


 61の言葉に、巧は首を捻る。


「そうとも。今オレが納まっているこの携帯電話が最もたる例だ」


 フンと鼻を鳴らして、ドクロマークは胸を張っているかのようだった。

 しかしそうなると、巧には別の疑問が浮かび上がる。


「それならもっと探査範囲を拡大できないのか?」


 回線に不自由しないと言いながらも、その実はあらゆる場所に赴いては電波を飛ばす。

 その矛盾は61にとって一番の苦悩らしく、先ほどまでの態度が一変。それでも偉そうな口調はそのままに語る。


「今のオレは、単なる小さなデータの塊だ。迂闊に探査範囲を広げれば、過負荷で即ダウンする。下手すればデータの海に溺れて消えるさ」


 まるで子供が拗ねるように61が呟く。


「お前も大変なんだな」

「それなりにな」


 まだいくつか疑問は残っているが、巧はそれ以上追求することもなく互いに短い相槌を交える。

 暫しの静寂。

 冷たい風が吹き、木の葉が舞う。

 公園の木に留まるカラスの鳴き声が巧の耳に届いた。

 空は夕焼けから夜へと変わろうとしてる。


「ここまでだな」


 巧はそう呟き、自分の隣においた携帯電話を手にし折り畳む。

 その時、複数の視線を感じた。


「…?」


 巧は周囲を見渡す。相も変わらず、公園に人気はなく閑散としていた。

 やがて日が完全に落ち、公園内の外灯が点き辺りを照らしだす。

 背後からの鋭い視線。

 巧は勢いよく振り返る。

 そこには赤い髪の少女が一人。両手を背にして公園の入り口に立ち、巧を見つめていた。周囲の外灯が彼女を照らし、より印象的に映る。


「君は…」


 その姿には見覚えがある。

 赤く長い髪。黄金色の瞳。黒いその服装。

 つい数時間前、ぶつかりそうになったあの少女本人だ。

 距離があって少女の表情は分からない。だが巧が振り返るその一瞬、まるで値踏みをし射貫かんばかりの鋭い視線をしていた事に巧は気付かなかった。

 少女は表情を和らげ、先ほどまでの雰囲気とはまるで対照的なまでの笑みを浮かべた。


「こんばんは、お兄さん」


 小動物がじゃれ付くかのような甘い声色で、少女が挨拶をする。

 巧の方はといえば、先ほどまでの鋭い視線さえなくなったものの、未だ自分を見ているであろう多数の視線を感じていた。

 加えて、そんな状況にはまるで似つかわしくない少女の出現に困惑する。

 少女の挨拶に答えることもなく、何かを口にしかけるが上手く言葉が出てこなかった。


「だめだよお兄さん。挨拶は大事なんだから」


 口を尖らせ、少女が不機嫌そうに右手を腰に当てる。

 そして、一瞬だが少女の目が細くなり口元を小さく歪ませ笑った。先ほどまでの笑顔とは違い、嘲る様なそして余裕のある笑みに、巧はゾッと寒気がした。


「おい。周りを見ろ」


 パーカーの胸ポケットにしまった携帯電話から、61が小さな声で巧に語りかける。

 正面に見据える少女を警戒しながらも、巧は61の声に耳を傾ける。

 その時、公園内の木々に留まっていた大量の烏が一斉に鳴きだした。その数の多さに、鳴き声は巧の鼓膜を破らんばかりの騒音となって襲い掛かる。


「いつの間に、こんな…」


 大量の烏達は、揃って巧の方を向いて鳴いている。まるで威嚇するような、敵であるかのような雰囲気に気圧される。

 先ほど感じた多数の視線はこの烏の大群のものだろう。

 鳴り止まぬ烏の鳴き声に、一歩後退る巧。


「…そうか。そういうことか」


 困惑する巧を他所に、61にはこの状況が読めてきたらしい。


「巧。死にたくなければ全力で走れ」


 61のそんな言葉の直後、木々に留まっていた大量の烏の群れが一斉に羽ばたきだす。それらが全て、巧目掛けて飛来する。

 完全に不意をつかれた巧は、あまりの状況に身動きもとれずその場で硬直してしまう。

 そんな様子を見かねた61は舌打ちする。


「アクセス!」


 61の言葉に反応するかのように、突如バチッと何かが弾けるような甲高い音と共に周囲の外灯が点滅する。次の瞬間、巧の左右前方に位置する二つの外灯の光が爆ぜた。

 しかしその周囲は明るいままに、寧ろ先よりも明るく照り輝き、支柱はまるで雷にでも打たれたかのように帯電しだす。

 それは立ち竦む巧と飛来する烏の大群の間に、眩い壁のようなものを作り出した。

 烏の大群は光の壁に触れると、金切り声と共にボトボトと地面に落ちていく。


「呆けるな! 走れ!」


 あまりにも突拍子もない出来事の連続に完全に置き去りにされた巧だったが、61の怒声に突き動かされ走り出す。少女に背を向け、反対側の出入り口まで全速力で駆ける巧。


「なによっ、あれ!」


 この状況は少女も想定外だったらしく、先ほどまでの余裕のある素振りから一転。

 思い通りにならず苦虫を噛み潰したかのように歯を食いしばる。その間にも、巧の後ろ姿はどんどん小さくなっていった。

 それを追うこともなく少女は地団駄を踏み左手親指の爪を噛んだ。

 やがて巧の姿を完全に見失った頃、少女は残った少ない烏達に視線を向ける。烏達は一度びくりと身震いすると群れを成して飛び去って行く。それは、先ほど巧が逃げた方角だった。

 残された公園内には苛立つ少女と、電球の爆ぜた外灯は今やその役目を果たさず、その周辺には感電死した烏の死体が多数転がっている。


「どういうことなの。取るに足らない相手じゃなかったわけ?」


 相手もいない公園で、少女は苛立ちを隠すこともなく声を発する。


「ちょっと24(にーよん)、何とか言いなさいよ」


 乱暴な手付きで携帯電話を取り出す。桃色のかわいらしいスライド式の携帯電話だ。

 少女はその画面に映る小さな鳥に向かって話しかけていた。


「然り。その筈であったのだがね」


 携帯電話の画面に映る鳥が返事をする。声は男性のもので、その口調は声を荒げる少女とは対照的に大人びた落ち着いた口調だった。

 その態度が更に少女を苛立たせるのか、少女は顔をしかめる。


「いけないな雛乃ひなの。女の子はもう少しおしとやかにするものだぞ」

「ああもう。そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」


 まるで状況を理解していないかのような、24と呼ばれる鳥はあくまでマイペースに言葉を繋ぐ。そんな様子に少女、雛乃は更に苛立ち声を荒げる。


「で? アイツは一体何をしたわけ」


 雛乃が手近のベンチに乱暴に腰かけ、足を組み携帯画面の24に説明を求めた。24は、ふむ、と考え込むような仕草をとって先ほどの状況を再確認する。

 光を灯さなくなった二つの外灯に目をやり、24は雛乃に語りだす。






 時を同じくして巧は狭い路地裏に身を潜めていた。

 額にはびっしりと大粒の汗。急な運動に心臓の鼓動は激しく脈打ち、肩で息をしながらも肺は酸素を求めるが、呼吸が荒く思うように酸素を吸い込めない。コンクリートビルの外壁に背中を預け、両手で膝を持ち項垂れている。

 どれ程そうしていただろうか。次第に落ち着きを取り戻し呼吸を整える。


「…おい」


 まだ息は荒く苦しさに顔を歪ませながらも、先ほどよりは大分余裕も生まれた。

 右手で携帯電話を取り出し、画面に映る61に問いかける。


「さっきのは一体なんだ」


 呼吸を整えながら、苦しげに巧が呟く。


「どれの事だ」

「全部だ」


 先ほどの異質な出来事。その際起きた不可思議な現象。

 どれも巧の常識を逸脱しすぎており、それは恐怖や困惑といった形で表情に現れる。

 巧の問いかけに、61はすぐに答えなかった。やがて言葉を選ぶように語りだす。


「さっきのアレは、オレがあの公園のシステムをハックしたんだ」

「…ハッキングのことか?」


 画面に映る61がコクリと頷く。61は更に言葉を重ねる。


「お前と、烏の間にあった二つの外灯を利用したんだ。その二つの間に大量の電流を流して烏どもを感電させた」

「そんな事、出来るわけが…」


 ない、と言いかけた所で言葉に詰まる。

 先ほどの公園で61が言っていた事を思い出した。入り口や覗き穴は大量にある、と。

 しかし例えそうだとしても、一度に多くの事が起こりすぎて頭の中が整理できず、巧は更に混乱する。疎ましそうに左手で頭を掻き毟り、どう言葉にしていいか迷った様子で歯を食いしばっていた。

 色々と不条理なこともあるが、巧はもう一つの疑問を問いかける。


「さっきの女の子。あれはなんだ」


 大量の烏をまるで操っているかのように佇む少女。その雰囲気は、巧が今までに感じたこともない異様なものだった。


「詳しくは知らん。だが───」


 何かを言いかけ、言葉に詰まる61。悩むようにしばらくの間を空けて再び口を開いた。


「あの女はオレのデータの一部を持っている」

「お前の?」


 61は、あの少女から失った自分のデータを感知したという。正確には彼女の所持している何かからであり、彼女自身は至って普通の人間だと説明する。

 だがそうなると、説明できない事がある。


「あの女の子。烏を操っているようにも見えたが?」


 動物を調教すればそういった事も可能ではあろう。

 しかしあんな大群を一度に、それも寸分狂わず指示が出せるであろうか。可能だったとしても、操るであろう少女からは指示する声や合図などまるでなかった。


「烏の脳神経をハックしたんだろう」

「脳神経って…」


 あまりの突拍子もない言葉の連続に、巧はまたも面食らってしまう。


「実際はもっと違った用途の物なんだがな。だが、そうか…。小動物程度であれば精神支配も可能なのか…?」


 後半はぶつぶつと、独り言のように呟く61。一体何を言っているのか巧には分からないが、それが非常識極まりないことだけは理解していた。

 心臓の鼓動はまだ落ち着かないが、何時までもここにいるわけにもいかない。

 巧は薄暗い路地裏を抜けるため繁華街のある方向へと足を運ぶ。幸いにもこの路地裏まで繁華街の喧騒が、微かにだが聞えてくる。

 音を頼りに巧は狭い路地を進む。

 いくつ目かの曲がり角を抜けると、その先に繁華街の光が漏れていた。

 自然と足早になり、あと数十メートルで繁華街へと出られる。


「…っ」


 鳥の羽ばたく音が巧の耳に届いた。

 路地の出口、繁華街へと通じる道の真ん中に、一羽の烏が舞い降りた。左右に小首を傾げるような仕草を数回。その後に烏は巧に向かい威嚇するかのように鳴きだした。


「くそっ!」


 先の異様な出来事も相まって、目の前の一羽の烏にさえ萎縮してしまう。巧は元来た道を戻るように逃げ出した。

 狭い路地裏では思ったように動けるわけもなく、加えて夜なこともあり視界が悪い。出口を探し、巧は右へ左へと路地を彷徨う。

 だが、まるで見張りの如く配置された烏は巧の進行方向を制限し追い詰めていく。

 人気のない路地の奥。T字路を右へと曲がり、そこは行き止まりだった。左の通路は道は烏が見張っており、所謂袋小路へと追い詰められた巧はようやく気付いた。

 罠にはまった。


「はめられたな」

「分かってる!」


 吐き捨てるかのよう61がぼやき、巧が怒鳴る。

 巧から見て前方と左右はコンクリートビルに阻まれ、そこはちょっとした広場のようなスペースになっていた。

 右手の建物には扉があるが、ドアは重く閉じており鍵が掛かっている。左手と正面のビルには窓もなく、周囲にあるのはおそらくゴミが詰まっているであろう蓋のされた大きな青いゴミバケツが一つ。

 退路は先ほどのT字路を戻る他なかった。

 急いで別の道を探さなければ、巧は振り返り、そして硬直した。


「見ぃつけた」


 T字路の曲がり角から先ほどの少女、雛乃が顔だけを出してこちらを見つめていた。その表情は何処か楽しそうで無邪気さを感じさせるような、獲物を見定めた小悪魔的なものだった。

 雛乃が物陰から姿を現す。それと同時に、通路を見張っていた烏達が一斉に羽ばたき何処かへと飛び去る。やがて烏の気配も鳴き声もなく、巧と雛乃は一対一で向かい合う。

 一歩踏み出す雛乃。

 それに合わせ巧は一歩退く。


「…なんで俺を追う?」


 巧は睨みながら、正面の少女に問いかける。

 対する雛乃は余裕の表情で巧を見詰めながら口を開いた。


「別に、お兄さんに用はないの。私が用があるのは」


 雛乃がゆっくりと右手を上げる。


「そ、れ」


 ニコリと微笑み、巧の持つ携帯電話を指差す。

 正確には、携帯電話の中に居る61を指しているのだろう。


「大人しくそれを手放すのなら、お兄さんには何の危害も加えないわ」


 自分よりも体格の大きい男を相手にしながらも雛乃は強気の姿勢を崩すことなく、上からの目線で語る。自分の絶対的な有利を確信しているからだ。

 どういう理由があって61を狙うのか、それは巧の知る所ではなかった。

 61の存在も非常識ならば、今日さっき目の当たりにした光景も、今目の前で自分を追い詰めるこの少女も、その全てが巧の常識を外れた未知の存在だった。

 今この場で61を差し出せば自分の命は助かるかもしれない。おそらく誰もが、こんな物とは関わり合いたくないと61を犠牲にしただろう。

 故に巧の答えは決まっていた。


「それは出来ない」


 明確な敵意も込めて巧は言い切る。

 今を61を手放す事は、姉を助ける手立てを失うに等しい。巧はどうあっても61を渡すわけにはいかなかった。


「へえ? 随分威勢がいいじゃない」


 おそらくただでは渡さない。それは雛乃も予想していた。

 だがその返答があまりにも即答、且つ明確な敵対意思を表していたことには内心動揺していた。

 それを気取られまいと、あくまで平静を装い表情はそのままに。雛乃は隠し持っているアイスピック状のナイフへと手を伸ばす。それは丁度巧の死角、雛乃の腰辺りに忍ばせていた。

 雛乃は武器で脅しをかけよう。と考えていた。

 そんな彼女の目論見は、柄を握るよりも速く、正面から飛んできたゴミバケツにより完全に崩されてしまう。

 返答後の巧の行動は速かった。

 雛乃が隠し持ったナイフに手を伸ばしている最中、巧は近くにあった青いゴミバケツに手を伸ばす。それを力の限り、正面の雛乃へと投げつけた。中身はあまり詰まっていなかったのか、片手でもそれは軽々と持ち上げられた。


「ちょっと…!」


 突然の事に雛乃はバランスを崩す。それでも身を捻り、ゴミバケツの直撃は免れた。

 雛乃の顔のすぐ横を、投げられたゴミバケツが通過する。それは後方の冷たい地面に激突すると、中身に詰まったゴミを周囲にぶち撒けた。

 ほんの一瞬、雛乃の視界から巧の存在が消える。

 ゴミバケツを投げると同時に巧は地を蹴り雛乃目掛け駆け出した。

 迫る巧に気付いた雛乃は、隠し持ったナイフを突き出す。しかしバランスを崩した状態ではナイフが当たる筈もなく、逆に突き出した右腕を掴まれてしまう。

 巧は掴んだ右腕を離すことなく、力を込めて自分の方へと引っ張った。


「わ、あっ───!?」


 行き成りの事で完全に足がもつれてしまい、雛乃はバランス感覚を失う。何とか体勢を立て直そうとするが、咄嗟の事で上手くいかない。

 雛乃を引き寄せた巧は、自分の右腕の肘を曲げその腕を彼女の喉元へ当てがう。そのまま勢いをつけ隣のビルの壁に叩きつけるように押さえ込む。雛乃が呻き声を上げ苦痛に顔を歪める。

 ナイフを手にした右手も同様に壁に押さえつけナイフを払い落とす。ナイフがコンクリートの地面に落ち、甲高い音が路地裏に木霊した。


「なに、するのよ…!」


 喉元を巧の右腕が、右手は冷たいコンクリートの壁に押さえつけられ身動きの取れない雛乃は、苦悶の表情を浮べながらも巧を睨んでくる。


「ははっ! 上手いもんじゃないか」


 パーカーの胸ポケットにしまわれていた61が、痛快そうに語りかける。


(とりあえず上手くいった)


 上手くいくとは思っていなかったのか、巧は内心自分の行動に動揺しながらも、この先の事を考える。

 雛乃は忌々しげに暴れるが、力では巧の方が上なのか抜け出せそうもない。

 巧は目線だけを動かし周囲の状況を確認する。こんな状況に陥って尚、彼女を助けるような烏達の気配はなく、かといって視線を感じるわけでもない。

 何もない事を確認すると、巧は押さえつける雛乃へと質問する。


「お前は何を知っている?」


 少しだけ右腕を緩め雛乃が喋り易くする。


「何を? なにそれ…お兄さん何も知らないの?」


 嘲笑するかのように口元を歪め、見下したような目で巧を睨みつける。

 だがあくまで冷静に巧は少女の次の言葉を待つ。暴れることなく大人しくなった雛乃だが、その表情には若干の余裕が残っている。


「お兄さんの持ってるそれが、何番目で呼ばれてるのかは知らないけどね」


 取り押さえた雛乃の言葉に注意を払っていたせいか、巧はその異変に気付くのが遅れた。


「巧!」


 61がそれに気付くよりも、雛乃の方が若干速かった。

 巧の右腕に絡みつくように伸びた、銀色のか細いチェーン。雛乃のスカートにぶら下がっていたそれであり、それはまるで蛇の如く巻き付き巧の右腕を締め上げた。


「…うあっ!」


 右腕を締め付けられ、同時に首にもチェーンが撒き付いた。か細い見た目に似合わずその締め上げは強力であり、一瞬だが完全に呼吸が出来なくなる。巧がくぐもった悲鳴をあげる。

 その隙に抜け出した雛乃は、お返しとばかりに右足を上げ巧の腹部に蹴りを入れる。靴底がめり込み、巧は二、三歩よろめく。

 よろめく巧を手玉に取り、雛乃はチェーンを自在に操って地面に叩き付けた。衝撃で肺の中の空気が吐き出され、呼吸ができず苦痛にのた打ち回る。同時に口の中が切れ、苦い鉄錆びの味が広がった。

 路地の薄汚れた地面に押し倒し、絡め取った右腕を締め上げたまま巧の背中に回す。


「あんま、舐めないでよね」


 地面に這い蹲る巧の背を右足で踏みつけながら雛乃が冷たい視線で見下ろす。

 チェーンで縛り這い蹲る巧をそのままにして、雛乃は先ほど落としたナイフを拾う。右手で握ったナイフを逆手に持ち替え、巧の顔のすぐ横にナイフの先端を突き刺した。

 瞬間、巧の顔が青ざめ血の気がひく。


「別にお兄さんは殺すつもりはないんだよ。コレは本当」


 そう言いながらも雛乃の表情は冷ややかにその目は怒りで満ちていた。じわじわと締める力を強めながら、それでも決して窒息死させないよう手加減はしている。

 這い蹲る巧の背に、馬乗りになるような形で雛乃が腰を下ろす。


「でもさ、女の子にアレはないんじゃないかなあ。傷ついたなあ」


 姿勢を低くし巧の耳元で低い声で囁く雛乃。突き刺したナイフを引き抜き、今度はそれをゆっくりと巧の首筋に当てがう。

 巧は振りほどこうとするも、チェーンで拘束された首と腕は自由が利かず、逆に首のチェーンが強く撒き付いてくる。


「ぐうぅ……」


 一切の抵抗が許されず、巧は奥歯を噛み締める。何も出来ない事に苛立ちさえ感じていた。

 それでも諦めようとしない巧に、雛乃は少し感心する。


「普通ここまでやられたら、諦めると思うんだけどな」


 その言葉の意図することは分からないが、巧にとってはどうでもいいことだった。現状をどうにか打破すること、それが最優先だった。

 しかし現実は非常である。絡みつくチェーンは緩む事を知らず、もがけばもがくだけ締め付けをより強くした。

 やがて巧の視界がぼやけ、考えが定まらなくなる。


「さあ。早く携帯を出して」


 その言葉を最後に、巧の意識はそこで途切れた。

 表情は苦しみと悔しさに染まっている。

 大人しくなった事を確認し、雛乃は空いた手で巧の服をまさぐる。携帯電話を探しているが中々見つからない。

 やがてその手が、巧の着るパーカーの胸ポケットへと向かい。


「雛乃」

「───!」


 24の声。雛乃はすぐさま横へと飛び退く。

 瞬間、先ほどまで雛乃がいた場所を鋭い何かが横切った。それは倒れ伏した巧の近くに突き刺さり、あろう事か地面を抉っている。突き刺さるそれは細長く濃い灰色をしており、先端部分は正三角形のような形をしていた。

 分かり易く例えるなら、線の長い矢印といったところだろう。

 雛乃はそのまま物陰へと身を潜ませる。


「なにさっ!」

「どうやら新手のようですな」


 24は状況を冷静に把握し雛乃へと伝える。

 巻き付けたチェーンを呼び戻し巧を開放する。拘束したままでは不利と判断したようだが、24はそれ以上にこの場からの撤退を進言した。


「逃げろっての?」

「相手の力量は未知数。今私が全力で相対すべきなのかも分からない以上、それが無難というものだ」


 あくまで冷静に状況を見据え24は語る。

 もう少しで目的を達成しただけに、雛乃は苦渋に満ちた顔をしつつもその場から走り去る。

 やがて、その場に取り残されたのは倒れ伏した巧と、地面に突き刺さった灰色の矢印。

 雛乃が去った方向とは別方向の路地から、ゆっくりと誰かが近づいてくる。静寂の戻った路地に足音を響かせ、その者は現れる。

 アメジストのように澄んだ長い髪を束ねたポニーテール。夜にも関わらずサングラスを着用し表情は分からない。闇と同じ色をしたスーツ姿に白い手袋を身に付け、その手には刀の柄の様な物が握られている。鍔の様な物はなく、その柄の先は雛乃に襲い掛かった灰色の矢印と繋がっていた。

 地面に突き刺さったままの矢印は、メジャーのようにシュルシュルと音を立て引き戻される。柄に吸い込まれるように戻ると、やがて先端の正三角形の部分だけを残して柄の中へと消える。その小さな柄の何処にあれだけの長い物を許容できる隙間があるのだろうか。

 その者は倒れ伏す巧を見下ろし、片足を折り地面に付け跪くような姿勢をとる。

 巧の首筋に触れる。意識はないが、脈がある事を確認する。

 今度はその手が巧の胸ポケットへと伸びる。巧の携帯電話を取り出し、開く。


「よう」


 ドクロマークの61は、ぶっきらぼうに挨拶をする。別段慌てた様子もなくいつも通りの様子で画面内でふんぞり返っていた。

 薄桃色のきれいな唇から何かを言いかけ、その者は言葉を飲み込む。

 しばらく61を見つめていたが、やがて携帯を折り畳むと自分のスーツの内ポケットへとそれを仕舞い込む。

 倒れ伏した巧を肩に担ぐように抱え上げ、路地の奥へと姿を消す。


「さて、どうしたものかな」


 誰にも聞えないような声で、スーツの内ポケットに収まる61はぼやいた。






遅筆なんでペースは激低だよ。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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