99 任那興亡史
肖古王代は、その意味で百済の建国期に入れて考えることもできるだろう。その建国期の肖古王が、かって楽浪郡の中心であった平壌城まで北上して高句麗王を戦死させる快挙をなしとげた。百済の歴史はここにめざましい一期を画したのだ。なお、この勝利の結果として記される慰禮城から漢城への移都は、平壌城攻撃の歴史事実ほどは確かな記録ではない。慰禮城も漢城も同一地域(今の南漢山)であったと言う、今西博士の「百済史研究」中の「百済国都漢山考」の論が認められる限り、これは百済国の国都としての再確認に過ぎないと思う。
百済がこのような、強力な北方進出、高句麗攻撃を決行し得たのは、まさに、その前々年に実現された日本の出兵、その出兵の結果を確認して行われた日本との同盟の誓いによって後願の患いから全く解放されたからではあるまいかと思われる。
北方進出の成功、高句麗攻略の勝利は、翌年372年に於ける中国、東晋への通交を誘発した。百済はこの記事を以て、中国資料に登場する。実は、これより先346年にあたる永和二年の晋書載記、資治通鑑に、百済の名が始めて見えるが、これは百済、直接の編年資料とは見なしがたい。それに比べれば372年正月には、百済王の使者が東晋に入朝し、貢ぎ物を持参した。六月には東晋が使者を百済に出して、百済王に(肖古王)に鎮東将軍領楽浪太守の官を与えたという記事は、明確に立国を立証するものである。
思うに360年代の百済は、すでに一応は統一国の形をなしていたろうと考えられるにしても、その統一は、いまだ全羅道の方向までは及んでいなかった。その方向に拡大するにあたって、北方の防備をよぎなくされた。
北方には楽浪郡を滅ぼして、そこに入れ替わった高句麗の勢力が、たえず南下の機をねらっていて、しかも東南方面に於ける新羅の発展はめざましく、まもなく洛東江流域一円の併合を遂げようとする勢いを示しているにとまらないで、ついでに青梁山脈を西に越えて全羅道の征服まで立ち至る恐れが充分にあった。




