98 任那興亡史
ここには、珍しく新羅、百済、倭の関係がしめされている。「百済記」はもちろん三国史記中の「百済本紀」の事ではなく、別の古史である。細部にわたっては、真実ではないかも知れないが、百済と新羅との対立、日本と新羅との対立、加羅の中間的存在、それらの実情がここに読み取れる。これら以前の事を年代順に列記すれば以下のようである。
366年 百済王の使者三人が日本に来て朝貢した。新羅の使いも、ともに来た。百済の貢ぎ品が、途中新羅によって、破損又は盗まれ事が判ったので、朝廷は千龍長彦を新羅に遣わした。
369年 荒田別鹿我別を将軍として、百済の使者とともに渡海させ、新羅を撃とうとしたが兵が少ないと思い、さらに使いを日本(4世紀日本の国名はない。春野註)に送って軍士を増加するよう請うた。
朝廷は更に木羅斤資らを遣わした。そしてそれら大兵力をもって新羅を襲って破った。これによって海岸沿いの新羅の国が倭国の軍門に下り、百済に近い何カ国かを百済に与えた。
370年 百済の使いが始めて日本に渡った。百済は倭国に臣従することを誓った。
371年 十月 百済肖古王は太子(貴須王)とともに、兵三万をもって高句麗に進入し、平壤城を攻めた。高句麗故國原王は、これに抗戦し流れ矢にあたって死んだ。百済はこの勝利に乗じて、直ちに都を熯山に移した。
372年 百済王は、日本への貢物の永久なるべきを内外に誓った。
375年 百済の肖古王が薨じた。
376年 百済の貴須王が即位した。
三国史記の百済本紀には開国・始祖即位の年を西暦前18年とし、371年に至るまで400年近い時間の経過と十三代の王の継承を伝えているが、その間に盛られた記事は、すべて伝説の範囲をでない、歴史事実として立証できるものがない。
百済の実際の歴史は、313年楽浪郡滅亡後まもなく馬韓の一国である、伯済国が馬韓の北部を統一し、更に北上して、帯方郡の故地をも併せたというのが真実である。そうであるなら、百済の建国は、高句麗に大進撃した371年をさかのぼる事、半世紀に満たないもので、百済国王というものも肖古王以前に一代か二代が想定されるにすぎないのである。