97 任那興亡史
書紀応神天皇3年紀(392年)の10月に「この年、百済の辰斯王が立ってから、礼を貴国(ここでは和国・春野註)に欠いてしまった。天皇はそれゆえ紀の角・羽田の矢代・石川・木菟等の宿禰を遣わして、その無礼を責めた。これにより百済国は辰斯王を殺して謝した。紀の角の宿禰等は阿花を立てて王となして帰国した」と言う記事がある。
そうすると、これらの事から倭と百済の関係は、すでに倭が大挙渡海する前からのことであることが解る。
それであるならば、倭と百済のそれ以前の関係はいつごろまで辿ることができるか、書紀にはどのように紀されているのだろうか。
倭が大挙して攻めた391年の6年前の事として、「百済の枕流王薨ず、王子阿花、年少を以て叔父辰斯、奪いとり立って王となる」(神功紀64年)さらに、その前々年の事として「新羅朝貢せず、その年、襲津彦を遣わして新羅を撃つ」と記す。この証拠を示すように、文註に「百済紀」を引いてー新羅、貴国に奉らず。貴国沙至比跪を遣わして討たしむ。新羅人、美女二人を連れて港に迎える。彼、その美女を受け取り、かえって加羅国(どの加羅国であるかは不詳)を討った。加羅国王とその臣と人民は百済に急いで逃げ込んだ。百済はそれを篤く遇した。加羅国王の妹既殿至、大倭に向かって奏上した。天皇が将を送って新羅を打たしめたが、しかるに将は美女を受け取り、新羅を撃たず、かえってわが百済を滅ぼしました。これがためにわが兄弟、人民、皆流亡してしまった。それを思い悩んで、ここに参りました。
天皇はそれを聞き激怒し兵を使わして加羅に入り、領地を服した。