96 任那興亡史
この記事は書紀の年立てに従えば、西暦前33年~28年の事であるが、今はそう考える者はいない。
年代を引き下げたところで、それが事実であったという確証はない。書紀においては神宮皇后紀の終わり頃から対外関係の事実の記載と見なせうるものが、時々見え出すのだが、しかしそれとても、年代を引き下げることによってのみ、事実の記載と言えるのに留まる。年代を引き下げずに事実の記載と言えるものは雄略天皇紀(470年代)に至ってはじめて所々に見え始めるのである。
書紀編者の構想では崇神天皇紀をもって、対外関係開始の第一弾としたと思われる。というのは、崇神10年の条に遠く荒れた土地の人々は、いまだなお正しい支配も受けず、良い王制にもなじんでいないと4道への将軍派遣を記し、十月にはそむきそもの、今やことごとく誅に伏し、畿内事なし。ただ海外の荒俗騒動未だ止まず。として国内安定のために再び、国内4道へ将軍を派遣している。
そしてこれらの記事の後に、崇神65年の任那の朝貢記事が現れるのである。この任那朝貢の記事を象徴として、垂仁天皇、仲哀天皇、神宮皇后紀にかけて、対外関係の記事が次第に増えるのである。
これら、海外展開の象徴となる、筆頭の記事が百済でなく新羅でなく任那がどうして取り上げられたかということである。それは、後代の対韓関係が、任那を基軸として展開したからであろう。
書紀は任那の朝貢によって対外関係が具体化した事、その結末を記したあと、ついで新羅の王子(天の日鉾)の帰化を記し、任那から新羅へ、朝貢から帰化へと関係が深化する記事を発展させている。
つぎに任那らしきものが歴史に現れてくるのは、好太王碑においてである。(細かい事はすでに春野の文中では記したので省略)百済、□□、新羅の風化した□□は加羅、または任那であると推測させる。この年(391年)、倭は百済・任那・新羅に及ぶ広大な地域に兵を出して、それらの国々と高句麗との宗属関係を打ち破り、新しく倭に臣属せしめた。