95 任那興亡史
やっと図書館に注文してあった「任那興亡史」が他の図書館から転送されて来た。アマゾンで買うと4万円もするという貴重な本だ。意外に小さい本である。厚さ2㌢・横15㌢縦20㌢茶色で300ページだ。
手元にある、この「任那興亡史」は吉川弘文館発行、昭和24年初版、昭和46年増訂5版の茶色い装丁の本である。著者は末松保和氏。明治37年生まれ、昭和2年東大文学部国史学科卒業、朝鮮総督府修史官補、修史官を経て昭和10年京城大学助教授、昭和14年同大学教授、昭和24年学習院大学教授・文学博士の方だ。朝鮮総督府は明治43年、日本に併合された、韓国を統治するために設けられた官庁だ。
・・・一読してみて、やはり受け売りの受け売りでは、だめだと感じた。氏の実直な姿勢から打ち出されてくる推論は、かなり客観的でやはり今でも得難いものであるなあと思う。従ってここで、なるべく忠実に、氏の説を要約してみたい。それが以下の文である。
任那の記事の始まりは、日本書紀の崇神天皇65年の条で、そこにはこう記されている。
「秋七月、任那国は蘇邦曷叱智を遣わして、朝貢させた。任那は筑紫の国を去ること2000余里の北、海を隔てて雞林の西南にあり」 それを受けて、5年後の垂仁天皇2年の条に「この年、任那の人蘇邦曷叱智を遣わして、朝宮させた。任那は筑紫の国を去ること2000余里の北で、海を隔てて雞林の西南にある」
それを受けて5年後の垂仁天皇2年の条に
「この年、任那の人、蘇邦曷叱智国に帰らんと請う。それで天皇は賞を篤くして、赤絹
100匹(2300㍍!多量な布という表現ではないか?春野註)を持たせて、任那の王に賜う。しかるに新羅人は途中の道で遮って、奪った。二国(任那と新羅)の怨みは、始めてこの時起こった」 と記されている。