94 日向の事
松尾さんはいま私たちがそこから来た飯盛山山麓の早良平野を指さし、ついで眼下の糸島平野から、海の方をさしながら言った。私達はちょうど、その早良と糸島の接点となっている峠に立っているのであった。
「そうですか。そしてその【朝日の直刺す国】の早良から、あの飯盛遺跡が発見されたというわけですね」
私は、原田大六氏の「実在した神話」などにより、筑紫のここに「日向峠があり、近くには槵蝕山もあると知っていたが、実地にそこへ来てみたのは今度がはじめてであった。松尾さんのおかげで、その松尾さんと私とがここでかわしたことばが、「古事記」のいわゆる「天孫降臨」段のそれであることはいうまでもない。
こうして、その地を訪ねた時の事を思いだして、金達寿氏は歌の地が宮崎の日向でなく、そこではないかと言った後、追加の証拠として、そこから韓地方向の海が見えること、中国の史書である「新唐書」が日本の歴史を述べたところで「王姓は阿毎氏、初首は天御中主と号す。彦瀲に致るおよそ32世、みな尊を以て号となし、【筑紫城】に居る。彦瀲の子神武立つ。更に天皇を以て号となし、うつりて大和州に治す・・・」と書いていることなどを上げている。
そこで筆者は、飯盛遺跡の事を調べてみた。飯盛遺跡のある早良平野の西には飯盛山標高382㍍がそびえている。平野からみると綺麗な三角形をしている。山裾には弥生時代中期初頭の王墓として注目を集めた吉武高木遺跡(国指定史跡)に代表される埋蔵文化財が点在する。飯盛遺跡はその一部の名称である。
吉武高木遺跡は早良平野を環流する室見川中流左岸(下流に向かって左側)の扇状地に立地する。1984年の調査で弥生時代の金海式甕棺墓木棺墓など11基・銅剣・銅矛などの武器11口
銅鏡1面・玉類464点が見つかった。
これらの墓地の周辺には集落跡が広がっている。この吉武高木遺跡の東50㍍からは高床式の12×9.6㍍の建物跡の周囲に廊下をめぐらせた、王の居室と見られる遺跡がある。この周辺の墓跡は何千もあり、1世紀の頃に大集落があったことを示している。これによって、早良平野には、そのころ早良国が
あったこと、それがやがて伊都国か奴国に滅ぼされたと大阪市立大学名誉教授の鳥越憲三朗氏が語っている。
どうだろうか、以上に書き連ねて来た事によって、有りし日の古代と倭国が想い浮かばないだろうか?
磐井がどのような状況の中で、生きていたか、日本書紀の呪縛を離れて見えるようではないだろうか。