93 韓地への熱き思い
さらに言葉は続く。「369年に任那加羅(加羅の一国としての任那)を中心とする加羅諸国の支配体制を中心として百済・新羅の協力のもと、任那・百済・新羅の三国連合で高句麗に対抗した。372年、倭の出征の成果を見て百済は国策として日本に対する属国的な関係を自ら認めた」
こうした思索の末、末松氏は、高句麗広開土王碑の文を考慮にいれて、四世紀末~五世紀初めの王の南征はかえって朝鮮半島南部の反高句麗勢力を固めるのに役だったこと、このような日本勢力の成長は、五世紀代には新羅をして高句麗との連携から日本の勢力への参入へと政策を転換せしめ、「百済における日本の支配権を強めた」と結論した。それ以降のことは
「任那の盛期は五世紀の前期であり、475年の高句麗兵三万の進撃による百済の都、陥落以降は任那の日本勢力衰退の兆候が現れている。倭国より百済への加羅諸国の分割などで六世紀になると百済が全羅南道地方の全域を領有したのに続き、新羅が加羅(加耶)諸国に侵略を加え始めた。かくしてついには562年任那の滅亡となり、加耶諸国は新羅王の支配下に没してしまったのである」と書いている。
日本書紀の、あやふやな文章と三国史記の記事から以上のような歴史認識を絞りだしてきた努力は大変なものだが、基礎になる資料が資料だけに、あたかも弱い基礎の上に立てた建物のように、イメージは明晰だがぐらぐらした印象は否めない。しかしながら、このようにかなりはっきりした姿で百済・任那・新羅の有り様を幻視できたことは価値のあることだ。かならずしも、このようではなかったかもしれないが大体の所でこのようなものであったと思われる。
しかしながら氏の視点はあくまでも倭国とは近畿大和国であるという考えにしばられていて、旧唐書倭国伝にある【倭国は日本国とは別種である、日本国はもと小国であって倭国とあわせて大国となった】という、黙示録的な驚くべき記事を忘れ果てていることに欠点がある。この視点は、故意にと言って良いほど無視されて今日にいたっているのだ。
この作品の冒頭に、倭国の韓地への熱い思いを示す象徴として筆者は次の歌を掲げておいた。倭国にあって、日本書紀にかけらもないものは、この韓地への熱い思いではないだろうか。この点において、この歌を所持していたものが大和国ではないことがあからさまにあらわれているのだ。それでは、この歌の原本を持っていた者はだれか、それこそは日本国と別種の倭国ではあるまいか。
ここは韓国に向かい、笠沙の岬を真来通りて、
朝日の直刺国、夕日の日照國なり。故この地は、いとよき地
ニニギの命 筑紫日向高千穂に天孫降臨の時の歌 古事記載
ここ日向高千穂の峯は韓国に向かっていて、韓国より博多の笠沙の岬をまっすぐ来たとこ ろで朝日が射す国で夕日が射す国だ。それであるから、この土地は大変良いところだ
前記「加耶から倭国へ」の書のなかで、作家金達寿氏が、此の天孫降臨の地と思われる地を訪ねた記を書いている。
松尾さん(金達寿氏の知人)は私達を乗せたクルマを、西に向かって走らせた。背振山地が東北へ向かって張り出した山中で、クルマはその山中の舗装された坂道を登ったかとみると、急に目の前が開けた峠となった。
その峠には眺望所といったような広場があって、松尾さんはそこにクルマをいれてとめた。みるとそこに「日向峠」とした標識があって、【この峠は北西の平原遺跡によって千八百年前(弥生時代)からの古代名をもつ、日本神話を伝承する土地と考えられています】とある。
「おう」とそのときになって私は気がついたが、眼下に広がっている光景は前原町、志摩町となっている糸島半島のそれであった。左手には見なれている可也山が立ちそびえ、さらにその左手の海中には姫島らしい島もみえた。それで私はまた一つのことに気がついて、
「ああ、ここは・・・」と声をあげて、松尾さんの顔をみた。
「・・・そうです」と、松尾さんはうなずいた。松尾さんはそれまでだまっていたが、意識的に私たちをその日向峠へ連れて来たのであった。
「筑紫の日向の高千穂の、そこですね」と私は、胸のうちがふるえるような感動を覚えながら言った。
「【此地は韓国に向かい、笠沙の御前を真来通りて、朝日の・・・】なんといいましたっけ」
「直刺す国・・・」
「そう、そう。【朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地はいとよき地】でしたね」
「そうです。東のあちらがその【朝日の直刺す国】の早良であり、こちらの西が【夕日の日照る国】の糸島で、あの海の向こうが韓国の加耶です」