92 名著 任那興亡史
末松保和の「任那興亡史」(1949年)は名著として知られる本である。この本、今は筆者の手元になく(アマゾンにて戦後まもなくの本が一万円、比較的新しい本で四万円する。そこで市の遠方の図書館よりネットで取り寄せ中である。これが無料とはありがたいことだ!)、以下の文書は当面、受け売りなのだが、また、近日手元に届いた時には、詳しく書いてみたいと思っている。今は前記した「加耶から倭国へ」書中の一章を担当しておられる山尾幸久1925年生、元立教大学教授の言葉を借りたい。
「任那興亡史」は、任那の成立(369年)盛時(4世紀末~5世紀後半)衰退(5世紀後半~6世紀前半)滅亡(6世紀半ば)結末(646年)の順で述べられている。
最初に「高句麗好太王碑」、「三国史記の百済本記」、「日本書紀・応神紀三年の条」、等によって391年倭が渡海した事実と事情を考察の上で、倭王と百済王の関係はこれより先に成立していたはずだとして、「百済記」ならび「百済記」によって書かれたと見られる「日本書紀・神功記」の記事を検証して、それが369年の事であると推論する。その条で末松氏は書いている。
「丙寅年すなわち366年、日本は韓地に派遣した使者によって、百済に日本遣使の意図あることを知ったのみならず、その使者の従者は、実地に百済に至り、その意図を確かめ得た。その翌年367年、百済の最初の日本遣使は実現した。その遣使の主旨は、珍宝の貢上にはあらず、実は日本の出兵を請わんととするものであったと考へられる。日本はそれに応じて、一年おいた369年に至って大兵を出した。その出兵の目的は、第一、東方に於いて新羅を討ち、第二、西方に於いても示威することであった。新羅を討つということは、具体的にいえば、新羅の服属を直接に要求するよりも、未だ新羅に併されてゐない加羅の諸国をして、日本に帰依せしめる事、換言すれば、新羅の発展を現状でとどめしむることに意義があったと解される」