91 三国の間で活躍する倭軍
宋国が倭国に対して、このような任務を許可する背景には、おそらく韓国の状況がかなり、さしせまったものであったことを推測させる。
西暦400年頃からの好太王の南征によって、百済と、新羅・任那は属国のようになってしまった。高句麗は新羅に軍隊を駐留させて、支配していたようである。427年には高句麗が都を国内城から南の平城に移したころから、ようやく百済の勢力が盛り返し始めたようで、倭国の都督諸軍事の任は、高句麗との対抗上、諸国の賛成もあって認可されたようである。
倭王は438年には宋国にたいして「倭隋」ら13人に将軍号の授与を願い出て許可され、さらに451年にも23人をが許可された。倭国が加羅諸国において軍事支配するのは430年のころから500年ぐらいの事であるようだ。
429年には百済と倭が兵を率いて進軍し新羅に駐屯する高句麗軍を駆逐して百済と加羅国を高句麗の呪縛から解放することができ、倭は加羅、百済の軍事顧問としての立場を確立するようになった。百済は百済の苦境から逃れるために、倭国と加羅の軍力を積極的に利用したようだ。
しかし、この一時的優勢も475年高句麗長寿王の大侵攻によって敗退ぎみとなり、攻めたり、攻められたりの様相を呈するようになった。新羅はこうした状況のなかで地道に国力をつけ、加羅の地をも狙うようになってきた。倭と加羅と百済は高句麗と新羅を、牽制し、勢力のバランスを保たねばならなかったのである。
475年からの百済王の苦境についてはすでに書いたが、高句麗と新羅の百済・加羅への干渉は、当然のことながら倭国の負担を増大させた。度重なる出兵と戦役は人的被害も増大し、倭国はこれらの負担の増大に耐えねばならなかった。こうした倭国の韓地への長年の消耗は、やがて別王家である大和王朝興隆のきかっけとなるのである。




