90 高句麗南下によって動き始めた倭国
前書の一章ではまた、共同執筆社の一人山尾幸久(1925年生・立命館大学教授・専攻日本古代史)氏が、良い考察を書いている。以下はその要約である。
中国の「隋書」新羅伝が「新羅は古くは百済に付随していた。高句麗が百済をしばしば襲うようになって、その軍務に招集される高句麗人は、その重役に耐えかねて、多くが新羅に逃れた。その結果、新羅は、高句麗人の力を得て、ついには強い勢力を持つようになった。それで百済を襲い、加羅国を付随させるようになった」と書いている。
「梁書」新羅伝には「新羅の国は小さく、中国に使者を出すほどの力はない。普通二年(西暦521年)王の募名を秦という者が始めて使いを出した。使いは百済に付き従ってやって来て諸物を貢いだ」とある。
これらを考えて見ると新羅がようやく力を付けだしたのは、西暦521年ぐらいのことだ。やがて新羅の国力が増し、百済・加羅を襲うようになるのは、それ以降のことである。
ここで宋書倭国伝を見てみると、西暦451年と478年の二回、倭王は中国・宋の皇帝より「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」に任じられている。このうちの「使持節、都督諸軍事」とは一定の管区について宋の皇帝から軍事上の指揮命令権や軍丁(兵士)・軍資徴発の権限である。命令に従わない場合は、独断で処刑を行えるのである。倭王は、加羅六国についてこの権限を承認されたのだ。(倭国は百済についても、この権限を要求したが、それは拒絶された)
宋による倭国王への権限の認可は、高句麗の朝鮮半島支配に対する宋の対抗策であった。「北魏書」百済伝に収録されている百済蓋鹵王(のちに高句麗によって惨殺された)の西暦472年の上表文には「(高句麗と)怨みを構え禍を重ねること三十余載(三十余年)財尽き力尽き」と百済の苦境が吐露されています。
この、高句麗の南下によって起こる苦境を救う者として倭国は動き始めたと考えられる。