9 金印発掘余話
作者は、この作品で収入を得ているわけではないから、あたかもストーリーはジャズマンのごとく千鳥足である。千鳥足ながら良い音を奏でられたら幸いだと思う。さて倭国に関係ある出来事として以下のような事があったのをお伝えしたい。江戸時代天明4年(1784年)将軍家治と重臣田村意次の時の3月16日(もちろん旧暦)大地に春の息吹がふくいくとする頃、筑前の国、志賀島の百姓甚平が田んぼの椻に使っていたと思われる箱型に組まれた大きめの石の下から一寸(3センチ)ほどの金製と思える印を発見する。甚平はそれを那珂郡の役所に届けた。その印の鑑定を依頼された福岡藩の藩校の師範である亀井南冥は中国史書「後漢書倭伝」記載の次記の文書を思いだした。 建武中元2年(西暦57年)倭の奴国、貢ぎを奉り朝賀す。使人、自ら太夫を称す。奴国は倭国の極南海にあり、光武帝は賜振るに印綬をもってなす。 調べると金印の材質は97%が金、2%が銀、1%が他のものであった。一部に偽物説があるが、もし偽物である事が発覚した場合にはこんにち考えもつかない厳しい仕置きがあった江戸という時代を考えるとまずありえないことではないだろうか。また、それを作ったところで何か利益があるとも思えない。この金印に 倭委奴国王 と彫ってあったのだ。通常この印は 倭の奴の国王 と読まれている。この印が本物ならば、博多の志賀島は倭国の官庁があったか、倭国にとって重要な場所であったことになる。印綬の年は西暦57年であるから 新羅本紀 (韓国古代、新羅国作成の歴史書)に載る 倭の女王卑弥呼、使を遣わし来聘す。(173年)の記載を
便りにすれば、邪馬台国の盛時の百年も前の出来事である。倭国は大和国成立をさかのぼる500年も前に歴史に登場する事を強調しておきたい。