89 朝鮮総督府による任那日本府の調査
以上が任那、もしくは加耶についての氏の考察だが、氏はこの前記に、かって任那日本府についておこなわれた考古学調査について書いている。
1916年(大正5年)朝鮮総督府(1910年〔明治43年〕日本に併合された韓国の支配機関・要員は韓国人が多かったが、決定権などは、みな日本人がもっていた)は、任那日本府の存在を実証すべく古跡調査五カ年計画を策定した。この計画により五年間古跡調査が行われた。
それで慶尚南道の地域が、東大、京大の考古学の教授を動員して、しらみつぶしに調べあげられたという。
大正十年に当初の計画を終えた教授の一人京都大学の浜田耕作教授は、つぎのような内容の論文を発表した。朝鮮半島南部には、日本と同じような民族が、同じような文化を持って住んでいたらしい。このような密接な関係があることは解ったが、任那に日本府があったかどうかと言うような遺跡や遺物はどこにも見つからず、任那に日本府があったとは先入観として持つべきではない。(つまり、総督府に配慮してはいるが、遠回しに日本府のようなものはなかった。と結論しているのである)
何とか任那日本府の存在したことを実証して、韓国支配に論理的根拠を与えようとしたとした総督府の試みは失敗してしまったのである。しかし、このことによって私達は任那日本府が、大きな城などの構造物を持たなかった事を知る事ができるのである。「日本府はあり得た」みたいな結論を出さなかった当時の研究者の、意外な真摯な姿勢は、正に明治人の気風を感じさせるところではないだろうか。
この点から、任那日本府は存在していたとしても、大きな政府のような形で存在したのではなく、多少の軍力を備えた、かなりこじんまりとした、植民地の当局のような形で存在していたように考えられる。