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88 倭と加耶

 百済王武寧王の近衛ともなっている倭軍の実態を考えてみた。著書「韓国・日本古代史紀行 加耶かやから倭国へ」竹書房・1986年刊・著者金達寿(きんだるす)・西谷正・平野邦雄・山尾幸久は、加耶の考察に関して、優れた著作である。

 三国時代の韓地における倭国の状況がどうであったのか、この著作によって推測できる。書の一章で九州大学助教授の西谷 正(にしたにただし)氏は、かなり克明な分析を行っている。次はその文の要約である。


 任那みまなと言う漢字は、高句麗の有名な「広開土王碑」の中に「任那加羅」という形で出てくるのが最初である。この碑は、西暦414年に立てられているので、すでに5世紀のはじめに「任那加羅」という名称があったことになる。そして日本書紀には崇神天皇の条に「任那」という記事が出てくるがこれを「みまな」読ませている。いっぽう、中国側の資料によっても、五世紀に「倭の五王」が、中国の南朝に朝貢した際にも、やはり、中国の皇帝に対する上表文のなかで「任那」という漢字を使っているわけである。そのようにして、どうも五世紀の段階には、朝鮮側と中国側、あるいは、日本側の史料のいずれにおいても「任那」と書いて「みまな」と読んでいるようである。他方、三国史記や三国遺事など十二世紀成立のものには、「任那」という漢字も出てくるが、大体は「加耶」とか「加羅」であって、任那にしても「任那加羅」という形で出てくる。

 さかのぼれば三世紀の「狗邪韓国くやかんこく」「弁辰狗耶国べんしんくやこく」といった、小さな部族国家が任那・加耶の前身にあたるわけである。加耶と言う言葉は狗耶という言葉から起こり。四世紀には加羅または金官国と呼ばれるようになっていたらしいことが後世の文献にうかがえる。

 ところで加耶の地域というのは、朝鮮半島の東南部にあって、釜山ふざんの町のすぐ西側を流れる洛東江らくとうこう(加耶の別名である駕洛の東を流れているのでこの名がついたという)流域の右岸(上流から川下を見て右側)地域一帯を指していたようである。当初は一国である加耶国の国名であった加耶はやがて、加耶と周辺の群小国家の連合の総称になったようである。問題は、この加耶あるいは任那の地域に「日本府」という名称が見られる事である。すなわち「日本書紀」の雄略天皇八年の条に「日本府」がはじめて出てくる。しかし、日本府が出てくる資料は日本書紀だけであり、その実証はむずかしい。


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