87 百済中興の武寧王
百済武寧王(諡斯摩・生年462年~523年・在位502年~523年)についてはすでにいくらか書いたが、ここでさらに深く掘り下げて書いてみる。東城王が501年12月に殺されると、恐らく急いで倭から戻ってきたのだろう斯摩王は首都熊津(忠清南道公州市)で即位した。即位した時すでに40才になっていた。これは、当時の平均寿命から考えると、即位するには、年を取りすぎた感がある。
このことは、武寧王の即位が、あらかじめ予定されていたものでなく、緊急な事であったと考えられる。
前代の東城王の殺害は、百済王への失望ゆえに臣下の相当数が反乱したように見える。それゆえ武寧王がたやすく王位につけたとは思えない。王のもとに集まる兵だけで、反乱を鎮める事は難しかったと思う。武寧王の即位の裏には倭の大軍が動いている思う。
筑紫各羅島で生まれ、百済にすぐ送られた事になっているが(日本書紀・雄略天皇5年〔西暦461年〕の条に載)事実は不詳である。この事は百済本紀はもとより、他の韓書にも書かれていない。したがって、この事が真実であるかどうかが疑われるところだった。しかし近年、1971年に韓国の稜から墓誌石が発見され、その文にある没年が書紀の記述と整合することで、書紀の記述があながちでたらめでないことが証明される事となった。つまり墓誌石には在位23年(西暦523年)に62才で崩御したことがきざまれている。それから計算すると武寧王の生誕は西暦461年であることがわかる。これは書記の記述にあっている。しかも、出土した王棺が、日本でしか産しない高野槇で作られていることからも(筆者はすでに前述した)王と日本の深い関係が推測されるのだ。しかも王の名が斯摩であることを考え合わせると、書記の記述は相当真実だと思える。それにピンチヒッターのような高齢からの即位等々を重ねあわせると、武寧王が日本と非常に深い関係があったことをが想定される。あえて言えば、百済王の血を受けた父と倭人の母との間に生まれて、倭国で成長し、40才になったとも思える。
斯摩王は、40才になるまでひたすら百済の王になるために待機していたわけではなく、終生を倭国で生きるつもりでいたろうから、何らかの重要な官職を得ていた事が考えられる。「百済武寧王の世界 海洋大国・大百済」2007年・彩流社刊 の著者 蘇鎮轍氏(ソウル大学卒。1960年~1985年韓国外交官としてシンガポール・アフガン・ヨルダンを大使として歴任。1987年より韓国、圓光大学教授)は倭の五王の一人、武王であったが退位して百済に帰ったと書いているが、そこまで奇抜な発想はしないが、筆者も何らかの重要な官職を得ていたと思うのである。