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86 百済歴代の王

 東城王とうじょうおう(生年不詳~501年・在位479年~501年)は文周王の弟である昆支の子(書紀、記載)であるという。「三国遺事」には三斤王の父方の従兄弟いとこだと書かれている。

 いずれにしても、王の子ではない引き継ぎである。これは王統が、かなり混乱した有様を示している。

日本書紀・雄略天皇23年(479年)4月条に「百済・三斤王が急死したために、人質として日本に来ていた昆支王の五人の子供(昆支とともに日本に住んでいた)から新王が選ばれた。第二子末多王が幼少ながら聡明だったので天皇は筑紫の軍士500人を付けて百済に帰国させ、王位につけて東城王とした」と記されている。

 東城王は王位に就くと解仇を討った真老を四等官の低い地位から兵官佐平(一等官・軍人最高職)に抜擢した。新羅との同盟のために使者を派遣し、通婚を願い、493年に新羅の二等官の娘が嫁いできた。494年に高句麗が新羅を攻めたので救援を送って高句麗を敗退させた。495年には今度は高句麗に進入され、新羅から救援を受けた。しかしこうした新羅との友好も長くは続か501年には新羅を警戒して炭峴たんけん(場所不詳)に城を構えたと言う。

 国力の回復に努めた王であるが、晩年には執政がないがしろになって、災害も重なり財政が破綻した。499年には大干ばつが起きて国民が餓えたが、国蔵を開けて民に施そうという臣の意見を無視したので、国民が高句麗に逃亡し始めた。そのような状況で500年には王宮の東に臨流閣なる豪壮な建物を建て、池を掘り、珍鳥を飼い、毎夜大宴会をするなどの贅沢三昧の日々を送り、媚びへつらう臣下だけを身の回りに置いた。

 501年 衛士佐平(近衛兵最高職ともいうべきか)の白加はくか(白は上に草かんむりを置く字であるが、筆者pcには文字が見あたらない)が放った刺客に殺害され死去した。

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