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85 百済歴代の王

 さて、百済王の話しに戻ろう。蓋鹵王がいろおう(不詳~475年・在位455年~475年)は先代の毗有王ひゆうおうの死により、長男である彼が王となった。

 王は百済の伝統的な外交策である新羅・倭国と同盟して高句麗と対抗する事を保守した。高句麗の朝貢する北朝に接近し、高句麗を討伐するように働きかけたが失敗した。このことが高句麗の怒りを招き、475年に首都を攻略され、王が殺害される原因となった。

 すでに書いたが461年に弟の昆技こんきを王の子を孕んだ愛妾をつけて倭に送った。倭に致る途中の筑紫の加羅島かからしまで、後の百済王武寧王となる子供が生まれたという。

 高句麗は、百済の侵略をもくろんで、僧の道琳どうりんを百済に送り込んできた。碁を好む蓋鹵王は、碁の名手である道琳を側近として置き親しくなった。王は道琳のすすめるまま大規模な土木事業を進め、百済国庫を疲弊させる事となった。道琳は、この状況を見届けて、高句麗に戻り長寿王に報告したという。高句麗はその後、百済に三万の強大な軍を百済の首都漢城に発進して百済を壊滅するのだ。高句麗の発進を知った蓋鹵王は王子の文周ぶんしゅうを救援以来のために新羅に向かわせた。

 

 次代の王となる文周は一月後、新羅の兵、一万と百済にもどるのだが、首都漢城は破壊され、王は殺されていた。文周は、すぐに百済王文周(464年~477年・在位475年~479年)として即位して首都を熊津に移した。

 476年二月に大豆山城(忠清北道清洲市)を増強した。軍の実力者解仇(かいきゅう)を兵官佐平(軍の最高職)王の弟昆支(こんき)を内官佐平(政務最高職)に命じ、長男三斤(さんきん)を太子とした。しかし昆支がまもなく亡くなったので、解仇は政権を支配するようになり、ついには477年九月に文周王を暗殺することとなった。

 父王が亡くなったので(この時は、父の死が解仇の刺客によるものとは判明していなかった)長男の三斤はわずか十三才で三斤王(464年~479年・在位477年~479年)として即位した。解仇による前王の暗殺が発覚しなかった事もあって、解仇は全権を握り続けるのだった。そして遂に478年大豆城を占拠して王位を狙う反乱を起こしたが、失敗に終り殺害された。。しかし三斤王は15才という若さで亡くなってしまった。それが戦乱によるものか、病気によるものかは明らかではない。


 


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