84 倭国と大和王朝は別のものという、書紀の記述
【良く考える者は知るであろう】この言葉は、日本歴史上の特級の謎かけの言葉ではないだろうか?日本書紀は、この条の文章の中に、真実が隠されていることを示している。
日本書紀の完成が西暦720年、継体天皇25年は西暦531年にあたる。この出来事から、書紀への記載まで190年ほどの歳月が流れている。継体王が大和朝廷を確固とした地盤に据えてから、継体王朝は出自がもともと貧弱である自分に不都合な史書・記録を消し去る事に力を入れたと思われる。それは、それ以降の代々の天皇も同じであっただろう。継体天皇が単に近畿の豪族の一つであって、本来は天皇家と無縁な者で血のつながりもない、などという文書があれば、所持している者は厳しく処罰されたに違いない。
こうして190年が過ぎたあとには、もはやほとんどの文書は、消去されたものになっていただろう。しかし、大和王朝には、秘蔵の文書として、倭国を滅ぼした時に倭国から移送した文書が秘蔵されていたに違いない。古事記にない豊富な情報がある日本書紀は、倭国の史書の力を得て、膨大の量の歴史書となって、蘇り、作りかえられて誕生する。しかしそれは、壮大なフィクションとしてであった。
人々の言い伝えのなかには、滅ぼされた倭国王朝の姿が残されていたであろうが、それも人に知られてはならない、不敬な事で、人に知られたら、厳しい刑が下される事を覚悟せねばならないような言い伝えであった思われる。倭の滅亡に関するこうした言い伝えも、こうして衰微していった事だろう。
しかし、天皇家とは筑紫を中心とした倭国王家のことであるという伝承は根強く残っていた。それは史書の編集者の頭の中にもあった。この真実の歴史を抹消するのは歴史家として実にしのびない。倭国を抹消し、大和王朝に倭国の歴史をつなぎ合わせて、輝かしい歴史を作り出し、もって王家の永世の繁栄の基礎とすることが日本書紀の目的であるが、それはあくまでも大和王朝の意向であり、王家のものではない下司としての編者の気持ちとはずれている。中国では皇帝の気に入らない史書を作成して殺された史書編者がいたという。歴史家には真実の歴史を書きたいという強い気持ちがある。そうすることが我が身に危険であっても。日本書紀のこの条を書く時、編者は命がけであったに違いない。もし私が天皇であって、この内容を知る事ができたなら「お前は何を書いているのだ」といって、この条を削除させ、処刑することだろう。
この、危ない記述を、名もない編者は行っている。この条が平安時代を生き延び21世紀の今でも残されているのは、奇跡としか言いようがない。日本書紀本文にとっては、この条は、本文の目的を欺く行為であるからだ。
編者は百済本記をわざわざ引っ張り出してきて、継体王の在世であるこの時、「日本天皇・太子・皇子倶に崩じた」という記事があることあからさまにする。しかし、日本の「ある本」には、継体天皇は在位27年に崩じたとあると述べたあと、百済本記によって考えれば継体天皇は在位25年で崩じたと決めたと言うのである。しかし太子・皇子倶に崩じたと言うのは書紀と整合しない、このことは、後によく考える者に解るであろうと、百済本記(西暦七百年当時、和王朝が所有していた、今は現存しない、百済古記とも言うべき書)の天皇家の全滅記事に謎があることを示すのだ。
そして、「日本天皇・太子・皇子倶に崩じた」と言う事は、大和王朝の継体王の事ではなく、倭国磐井王の事であるよと示して、大和王朝が倭国と別のものであることを言っているのである。