82 高句麗への深い憎悪
武寧王は、高句麗に対して深い憎悪を抱いていた。高句麗によって父王や兄などの王族を根こそぎ虐殺され、貴族や民を捕虜として連れて行かれた記憶を消し去る事はできない。この激しい憎悪を作り出したのは次のような出来事だった。
475年、9月、高句麗長寿王が兵三万という自ら率いて百済にかってない攻撃を加えた。高句麗は百済と新羅の連合に、決定的な打撃を与えるために、その一方の百済に猛攻撃をはじめ、百済の都、漢城を包囲した。そして遂に百済の王城を包囲した。高句麗軍は兵を分け全ての城門を封鎖し、大門に火をかけて焼け落とそうとした。城内に逃げ込んだ人々は恐れおののいて、城から出て降伏しようと言い始め騒いだ。百済蓋鹵王(扶余慶)(在位455年~475年)は万策つきて、兵数十騎を伴って西へ逃走しようとしたが、高句麗兵に追われ殺害されてしまった。百済王子文周は、城が包囲される前に城を出て、新羅に救援を求めるため馬を走らせた。しかし救援の新羅兵一万を引き連れて百済に戻った時には、高句麗は男女八千人を捕虜として連れて帰り、城は破られ、王は亡くなったあとだった。
文周王子は、それで即位し、都を熊津(公州)に移した。正に王国の全面的崩壊の時、斯麻王子(やがての武寧王)は15才という年だった。王子は祖国百済の惨状と父の死と王族の全滅の報告を深い怒りと悲しみで受け止めたに違いない。斯麻王子が、百済にすぐもどされなかったのは、王子の中でも、それほど王位への順位が高かったわけではないのではなかったろうか。しかし、多くの王子が殺害されたことで、本来は王位への順位が低かった斯麻王子の順位が高まった事は間違いがない。
文周王は諱も不詳で、混迷を続ける百済の状況下、兵官佐平(百済の軍事担当の一等位)の解仇にたった二年で殺害され、幼い三斤王に王位が早々引き継がれる事になってしまった。