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81 百済武寧王に見えてくる日本古代

 日本の歴史は幸運な事に、百済武寧王という、歴史の暗がりを照らす照明灯を持つことができた。1971年7月忠清南道広州市の陵墓の一つから一枚の誌石が発掘された。誌石には


 斯麻しま王六十二歳癸卯(みずのと・う)年(523年)五月崩御(以下略)


 と、刻まれていたのだ。斯麻王とは武寧王の事であるが、亡くなった年が、ここに六十二歳と明記してあり、これは日本書紀雄略五年(461年)六月一日の条に「倭国の各羅島で誕生した」と言う記事と見事に整合して、書記の記事が嘘ばかりではないことを示している。

 この点から言えば武寧王の出自も、三国史記・百済新撰(失われた百済史書、日本書紀にその名が上げられている。百済本紀の記事の多くは、この書から材を取っていると思われる)・日本書記それぞれ異なり、誰が父王なのか判然としないが、ここでの書記の正確さから推測すると、書記の書く、蓋鹵王こうろおうが父で王の子を孕んだ王女と一緒に倭国に来た昆支こにきは王の弟で、斯麻王子にとっては叔父に当たると言うのが正解と考えられる。


 日本書紀には、武寧王は筑紫・加羅死魔かからしまで生まれてすぐに百済に向けて帰国したとあるが、実は永く倭国に生きて、父王の後を継いだ東城王が殺害された502年に百済に帰ったときは42才という当時としては、驚くほどのの高齢であった。考えてみるに、武寧王は、百済王朝の本流から外れ、一定の位階を倭国で得ていて、終世をこの国で過ごすつもりでいたように考えられる。


 百済王として即位した武寧王は、倭国に育った、半分倭国人である彼は、独立のプライドも高く高句麗の横暴に我慢することなく、高句麗にたいして猛烈な強硬な姿勢で臨んだ。この武力の背後には、当然ながら倭国磐井王の軍力が控えていることが想像される。いままで、さして強くなかった百済軍は、急に高句麗を蹴散らすように強くなったのであるから、これは単に、百済の気力の問題ではなく、倭国・伽耶との強い連携なしには考えられないのである。

 


 

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