80 動乱の大和から生まれた継体王
日本書紀には即位してなお都を移して定まらない継体王の事が書かれている。このことは、継体王が安定した立場の王でなく、未だ転戦している事を示している。転戦する本拠地を「みやこ」と表しているにすぎないのであると考えられる。この転戦する、王座が定まらない継体王に、どうして韓地経営の余裕があるであろうか、あるわけがない。なんと継体王が大和を都に定めたのは即位から19年後の526年の事である!
継体王が507年に即位したと日本書紀は書いているが、これは継体王が相争う王と王のトーナメント的な戦いの勝者のめどがついたと言うことなのかも知れない。従って継体王即位まで、王不在の長い戦乱の時期が当然あったであろうと推測できる。書紀の描くようなような、きれい事で継体王朝が成立したわけではないのだ。
さて、このような大和国の動乱に対して、韓地では武寧王と倭国・伽耶連合軍による、高句麗に対する反撃が始まっていた。武寧王は倭国王朝そのもののような血筋(母は恐らく倭の姫)で倭国育ちで462年生まれ(武寧王墓墓碑に、それが記されている)であるから倭国王磐井と年も近く非常に親しかったはずである。
百済本紀には、武寧王の業績が記されている。
502年 11月 武寧王は達卒の優永を派遣して兵五千を率いて高句麗の水谷城を襲撃した。
503年 マツカツが馬首柵を焼き高木城に進入してきたので武寧王は兵五千を出して撃退させた。
507年 高句麗の将軍高老がマツカツと共謀して漢城を攻めるために横岳の下に集結して駐屯したので、武寧王は兵を出して戦い撃退した。
512年 高句麗が加弗城を攻め取り、更に丸山城を破り、殺戮と略奪が激しかったので、武寧王は
騎兵三千を率いて戦った。