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79 どのように読み解くか、三国史紀

 さて、この三国史記の記事を、あなたはどのように読み解かれるだろうか?三国史記の記述が正しいと思うかそれとも創造であると思うかによって、推測される歴史的事実は変わってくると思う。

 一応、これらの記述が正しいとすると、筆者には三国史記がいくら倭国の動きを隠蔽しようとしても、はしばしに倭国の軍隊が百済と新羅の背後に存在するように思えるのだ。高句麗の猛烈な侵略は、新羅にとっても百済にとっても、援軍の欲しいもので、伽耶・倭国の力を頼りにしたと考えられる。450年から500年にかけて百済と倭の関係がどうであったかは不明だが、そんなに、ひどい関係ではなかったように思える。これは、ある程度、三国史記の編者によって意図的に削除されたに違いない、不自然な空白である。このような空白は、歴史記録者として良心が許さないほどの、あからさまなものであるといえる。

 裏読みすれば、倭と百済はそれ以前にくらべて、一層の懇親を深め、まるで同族のようになっていたとも考えられまいか。そのことが、従来の百済本紀に本来あった記述を編者が削除させる事になったのかもしれない。高麗国の編者には、それが真実であったとしても百済が倭国そのものであるようなことを書くことは絶対許されないことであったに違いない。


 しかしながら、次代の王、502年即位の百済武寧王に関しては倭の島で生まれて嶋王と名付けられたと日本書紀が詳しく書いているので、(前記した)倭との濃厚な関係があからさまになる。(この事情は百済本紀にない)

武寧王は、百済で即位してから、救国の王となり、高句麗に負けぎみであった、百済を立て直すことに成功する。その背後には当然ながら、濃厚な姻戚であったと思われる、倭国王子もしくは王である磐井の姿がかいま見えるのではあるまいか。

 武寧王即位の502年には、近畿大和国は継体王即位(507年)の前であり、長年に渡る王権争いの動乱のさ中にあって、とうてい韓地三国と伽耶に介入できる余地はありえないように見える。この点で言えば、この時点の倭国は、近畿大和国ではありえないのだ。(もともと、近畿大和国の地理的位置は韓地と遙かに遠く、三国史記に実にしばしば登場する倭国と近畿大和国とは無縁のものであるまいか)

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