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77 百済と新羅の交流

 倭国と敵対する新羅と倭国と親しむ百済であるが、三国史記には、両国の交流が描かれている。百済と新羅と倭の関係を知るためには、三国史記倭国伝のみによらず、倭国に言及しないが、百済と新羅の記事も読まねばならない。それは次のようである。


 450年 七月に高句麗の辺境守備の将兵が狩猟しているところを、新羅の一城主の三直が兵を出して殺してしまった。高句麗王はこれを聞いてひどく怒り、使者を新羅に送って、言った。「わが国は新羅と修好するのが喜びであるのに、兵を出して将を殺すとは何事であるか」と。そのあと高句麗は出兵して新羅の西方を襲った。新羅王は、それに対して丁重なお詫びをしたので、高句麗の兵はやっと引き揚げて行った。


 454年 七月。高句麗は兵を出して新羅の北方を襲った。


 455年 高句麗が百済を侵したので、新羅王は兵を派遣して、百済を救援した。


 459年 四月 倭人が兵船百余艘で新羅の東岸を襲った。倭人は月城を囲んで、城の四面に石、矢を雨のように射かけた。しかし弓も尽きて退却しようと退却しようと言うとき、城から兵を出して襲い、逃げる兵を追いかけて北方の海まで至ったので、倭兵の半数は溺れ死んだ。


 462年 倭人が新羅の活開城を襲い、破り、一千の兵を捕虜として連れ去った。


 463年 二月 倭人が再び新羅を襲ってきたが勝てなかった。王は復路に兵を忍ばせて、倭兵を襲わせた。しばしば倭が侵略するので、海辺に二城を築いた。


 468年 高句麗が靺鞨まつかつと共同して新羅北辺を襲った。九月に周辺の民、十五才以上を徴用して泥河に城を築いた。


 469年 百済軍が高句麗の南の端から進入した。


 475年 九月、高句麗長寿王が兵三万を率いて百済の都、漢城を包囲した。百済の王族の多くが殺害された。襲われる前に百済王(けい)は王子の文周ぶんしゅうを新羅に派遣して救援を請わせたので

新羅は一万の兵を出して救援に向かったが、辿り着いた時には王都はすでに落ち、高句麗に八千人が連れ去られた後だったという。王が殺されたので王子の文周が王として即位した。十月、文周王は都を熊津に移した。


 475年 新羅王は王都を明活城(慶州)に移した。


 476年 倭人が新羅の東辺を犯したので、新羅王は将軍徳智(とくち)に命じて、打ち破らせ、二百余人を殺害・捕虜にした。


 477年 倭人が大挙して新羅の五街道から進入したが、倭軍は勝利できなかった。


 478年 百済の武官である解仇かいきゅうが、政権を自由にし、王を亡き者にしようとした。九月、王が狩猟に出かけ、野営した時に、盗賊に王を殺させた。王の後を王子の三斤王が十三才で継いだ。

 解仇は、いよいよ勢力を強め、新王に叛いたので、新王との戦いとなり、新王は苦戦したが解仇を撃ち取った。


 481年 新羅北辺を高句麗が靺鞨まつかつとともに襲い狐鳴城など七つの城を取った上、更に進軍してくるので、新羅軍は百済・伽耶の援軍とともに、各街道に分散して防戦し、敗退させた。その後に敵軍を追跡して千余名を惨殺した。


 484年 七月 新羅の北辺を高句麗が襲った。新羅と百済が連合して母山城の下で撃破した。


 485年 五月 百済は使者を新羅に使わして和を結んだ。


 486年 四月 倭人が新羅の辺境を侵した。


 493年 三月 百済は使者を新羅に使わして婚儀を請うた。新羅王は重臣の娘を嫁がせた。七月臨海と長嶺の二城を築いて、倭の侵略に備えた。


 494年 七月 高句麗は新羅と蔭水いんすいの原で闘ったが勝てずに犬牙城に退いて守った。高句麗軍が犬牙城を包囲したので百済王は兵三千を派遣して、包囲を破り、新羅を救った。


 495年 八月 高句麗が百済の城を包囲した。百済が救援を請うた野で新羅王は将軍徳智に命じて救援させた。


 496年 新羅に伽耶国が白いきじを贈った。


 497年 四月 倭人が新羅の辺境を侵した。八月 高句麗が新羅の牛山城を打ち落とした。


 500年 三月 倭人が新羅の長嶺城を攻め落とした。(500年 百済武寧王=嶋王 即位する)


 502年 百済は軍高官の優永ゆうえいを派遣して兵五千を以て高句麗の水谷城を襲撃した。


 503年 高句麗傘下の靺鞨まつかつが高木城を攻めててきたので百済王は兵五千を出して撃退した。

 506年 七月 靺鞨が攻めてきて百済高木城を落とした。600名が殺されるか捕虜となった。


 507年 十月 高句麗の将軍高老と靺鞨が共謀して漢城を攻めるために進軍してきたが、百済王は兵を出して撃退した。


 512年 九月 高句麗が百済の加沸城を攻め取り、さらに円山城を破り、殺害と略奪が激しかったので王は騎兵三千を出して闘った。高句麗は、急襲され破れた。


 



 


 




 


 



 


 


 


 


 




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