76 百済本紀に見る、倭国と百済の関係
三国史記の百済本紀の記載を見てみよう。400年の頃には以下のように記事が多いが428年を最期に倭国との交流の記事が途絶え、次に現れる記事はなんと180年後の608年のことであることに驚かされる!
397年 百済王は倭国と親しくなり王子の腆支を、倭国に預けた。(倭関係初出・広開土王の記事は、この倭と百済の修好を怒っているのだろう)
402年 使いを倭に遣わして、大真珠を求めさせた。
403年 倭国の使者がやって来た。王は出迎えて、それを労う事が特に手厚かった。
405年 百済阿莘王が亡くなる。王の次弟の訓解が代わりに政治を治めて王子の腆支が倭国から帰国するのを待った。しかし末弟の碟礼が訓解を殺害し、自ら王となってしまった。腆支は倭国で、訃報を聞いて、号泣して国に返してくださいと倭国王に言った。
406年 倭王が兵士百人を以て護衛し、腆支を百済に送らせた。百済国境にたどり着こうと言う時、
漢城の人である、解忠がやって来て、告げた。危険だから軽々しく、祖国に立ち入らない方が良いと。腆支は倭人を国に帰すことなく自衛し、百済沖合の島に待機した。そうするうちに、百済の人々が碟礼を殺して腆支を王に迎えた。
409年 倭国は使いを遣わして夜明珠(不詳)を贈って寄こした。腆支王は厚く礼を言って饗応した。
418年 使いを倭国に遣わして、真綿(絹でできた綿)十匹を贈った。
428年 倭国の使がやって来た。従者は50人である。
この428年の記事によって、交流記録は突然とだえるのである。つまり、筆者が知りたい五世紀の百済と倭国の交流がどのようであったのかを知ることができない。友好を保ったのか、対立したのか、はっきりしないのである。