75 美化された新羅の歴史
462年 倭人が活開城(場所不詳)を襲って破り人一千を虜にして去って行った。
463年 倭人が歃良城を侵略したが、破れずに去った。王は伐智・徳智に命じ、兵を路に隠して待機させて、突然襲って、激滅した。
倭人がしばしば国境を侵すので、国境近くに二つの城を築いた。(国境?境は海ではなかろうか。この言葉によれば、隣に倭人の国があったみたいである!筆者感想)
476年 倭人が東辺を侵略した。王は将軍徳智に命じ撃たして、それを破った。殺害すること二百余人であった。
477年 倭人が兵を挙げて、五道に来て進入した。(多くの街道を埋め尽くすように非常に多くの兵士が進入したのである。多くの街道すじから、陸路を!やって来たという事は、暗に倭と伽耶諸国の連合軍の存在を示しているようである。筆者)しかしながら、新羅に打撃を与えることができずに戻って行った。
482年 倭人辺を侵す。
486年 倭人辺を犯す。
493年 臨海(山の中を臨海と今も昔も呼ぶまい。明らかに新羅北辺地域)・長嶺(山岳地域であろう。加耶・倭国鎮守府方面の西の山岳地域か)の二鎮を置いて、倭賊に備えた。
497年 倭人、辺を犯す
500年 倭人、長嶺城を攻め落とす。(このあと、665年まで倭関係の記事なし・527年に倭国で磐井の乱起こる)