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74 美化されている新羅の歴史

 450年頃からの新羅と高句麗の関係は実際はどうであったのだろうか。三国史記全体が、言ってみれば新羅美化の歴史書だと言える。三国史記を編纂した高麗国は、統一新羅の土壌に生まれて来た国であり、国名こそ変わったが、母国と言って良い愛着ある国であるから、高麗王国を輝かせるためにも、新羅が、高句麗や倭国の軍門に下っていたことを書く事はなかったのではないだろうか。もはや残された資料は三国史記のみであるから、その有様をくわしく検証することはできないが、創作された倭国との関係の中からいくらかを探り当てる事ができるかも知れない。

 広開土王碑には、倭が襲ってきて、高句麗の属国であった百済・新羅を属国にしてしまったと言う条が刻まれていて、王はそれを奪回したと結んである。これによれば、西暦400年の時点では、百済と新羅は高句麗の属国であったことが推測できる。しかし、その後の事はどうだったのだろうか?これが疑問点である。三国史記中の高句麗本紀には倭人についての記事は驚くほど少ない。


 遂成すいせい倭山に猟す。(高句麗第三代太祖大王八十年=西暦132年、7月条。遂成は太祖大王の弟。太祖大王の94年に大王が亡くなり、次の王となった。在位146年~165年。倭山の位置は不詳。倭と何らかの関係ある山であろうか)


 遂成、倭山の下に猟す。(太祖大王94年=146年 7月条)



 たった、これだけである!倭に関わりがあると言っても、倭山が倭に関係があるかどうかもわからない。高句麗が倭に対してひどく無関心であったのか、それとも記事が削除されてしまったのかは不明であり、もはや資料としては役立たない。現代の我々にはただ寂しい思いがするのみである。


 三国史記中の新羅本紀は、そんなひどい有様ではない。しかし、紀元前から始まる倭人との記事は59条に及ぶ多さであるが、新羅が力をつけてきた五世紀半ば頃から、記事はやや散漫なものとなる。


 459年 倭人、兵船百余艘をもって東辺を襲い、進軍して、ついには月城を囲んだ。四方から襲う矢や石は、まるで雨のようである。しかし王城は守られた。倭賊が退却しようとする時、兵を出して撃ち取った。北方に引いた倭賊を追ってついには海に至った。倭軍の半数は溺死させられた。


 



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