72 読めば読むほど謎に包まれる三国史記
三国史記を読み込んで行くと、西暦500年の時点で百済と新羅は高句麗の侵略に対して共同戦線を張って、阻止していたことが判別できる。たまさか倭が登場すると、この共同戦線の協力者としてでなく、新羅への侵略者として描かれている。伽耶の動きなどはとことん無視されている。ここらあたりに筆者は高麗王国の強烈な歴史隠滅の強烈な意志を感ぜざるをえないのだ。倭国や倭国に類する事項を歴史から削除することは高麗王国の情熱であったとさえ言えまいか。
三国史記の歴史改竄を前提に事実を推理してみよう。歴史状況を良く読み込めば、西暦500年の時点で百済と新羅と伽耶は高句麗の南下策を阻止するために必死だった。高句麗は、相手の弱点を見つけると、見逃さず攻め込んで来た。新羅は、いまだ小国で国力が無く、百済は通年の飢饉と王の失政で、それでなくても財政破綻に襲われているのに、高句麗の侵略を妨げねばならなかった。
このことが伽耶諸国の王のとしての金冠伽耶の王(韓地倭国の別名でもあるが、この王は倭国王子が任に当たるのが通例となっていた)への熱烈な援助期待となってあらわれた。
従来から、倭国は百済、伽耶諸国、新羅とは牽制しながらも親密な関係を作り上げていた。それは、高句麗の好大王が南下策を取り始めてから、すでに百年に及ぶ歳月を有しているのだ。
この間、新羅だけは高句麗と共同戦線を組み、倭国の海からの侵略を防いだが、500年に近づく頃には、高句麗の動きは、共同戦線というより新羅侵略という方向に転じてきた。ここにおいて、新羅も高句麗と離反し倭に接近して来たようだ。
高句麗の南下策は、膨大な国力を背景としたものだから、倭国にとっても、苦難の到来であった。しかし、倭国は運が良かったと言える事態が起こった。