71 三国史記の原典
筆者「怒濤の歌」を、終わらせるべく、集中して執筆していたもので、本話をしばし休筆している合間に、おそるべき「東北・関東大震災」が起こりました。筆者は東京・足立区でそれに会い、長々とした恐るべき大地の揺れと倒れるかと思うほどのビルや電信柱に非常に驚かされました。歴史上にも、このようなひどい被害の記録が残されていない想定外の規模の大地震・津波に会われて被害を被られた多くの方々に心よりのお見舞いを申し上げます。・・・しかしながら、古来より英知に富んだ日本民族は必ず、この苦難をのりこえて、否、むしろ糧として、一層の進展を果たすだろうというのが筆者の思う所なのです。
さておかげさまで、詩人実朝の一代記は、遂に語り終える事ができました。せつに皆様のお笑い草ながら、一読なされますよう、ここにお願いするところであります。
さてさて、高句麗・百済・新羅三国の西暦500年の時点の状況を克明に調べた著書に「『三国史記』の原典的研究」高寛敏著 雄山閣出版 がある。この後の記は、その著作を参考に使わせていただいている。
すでに書きましたが、五・六世紀の韓国の様子を知るには三国史記は欠かせない資料であると言うことです。この三国史記は1145年(日本で言えば、ちょうど、平家が源氏に対して勝利した平治の乱の頃である)に編纂されたもので、その出来事があって650年も後に記録されている。当然の事ながら「三国史記」には原典というものが存在する。新羅の後に、高麗王国が成立するが、その高麗の手により高麗前期(十一~十二世紀・日本における平安中期)にまとめられた史書に「旧三国史」がある。(現存せず)
「三国史記」の一国分である「百済本紀」は「旧三国史」を原典として、百済滅亡後、まもなく編纂された「古記」をも原典としているようである。「新羅本紀」の原典は545年に編纂された「国史」であり、「旧三国史は補助原典に留まるようである。その他、新羅の統合を描いた補助原典が存在していたようである。だがそうして書かれた「新羅本紀」には、広開土王以来481年まで続く高句麗への従属は隠されたままである。「高句麗本紀」の基本原典は600年に編纂された「新集」で「旧三国史」は補助原典に留まっている。「新集」は広開土王代に編纂された「留記」を簡略に改変したもので、大王以降の資料は、ほとんど失われてしまった。
「三国史記」成立にあたっては原典に適当な曲筆が加えられ、新羅後継を自認する高麗王国の歴史美化が描かれていると推定される。