69 韓三国の歴史と日本列島の歴史
従って、透明にされてしまった倭王朝の動きを知るためには、急に強くなった百済や新羅を分析しなければならない。西暦500年を迎える頃、新羅はやっと国名を決めたり官制を整えたようである。このことから推測すると、新羅はこのころようやく任那の小国から身を起こして、新進の独立国に成長したように考えられる。なぜならば、わざわざ新羅本紀に国名を定めたと書くからには、その国が、自称するほど古くはないと言うことを表している。自称によれば新羅は紀元前からあることになっていて、強大な高句麗よりも立国は古い事になっているがそれは事実ではない。新羅の地は朝鮮半島の東側、つまり九州や山陰側に面していて、元来倭人の領域だったところである。新羅本紀にも出雲で生まれた者が新羅で王となったという伝承が描かれている。新羅と出雲の間の日本海(韓国では東海というらしいが)には環流が流れていて(今でもこの環流は健在で、毎日、その早さを気象庁は発表している!)原始的な帆や櫂にたよる弱い推進力の船でも容易に行き来できるという。「倭人」と古代の人が言うとき、それは日本人をさすのではなく、九州北岸、対馬、壱岐、山陰、済州島、韓国東岸で漁労と農業と交易を営む日本海沿岸で生きている、ある一つの固有の文化をもった民族らしき人々をさしていたのだ。九州と韓国のあいだには、飛び石のように島があり、韓国と出雲の間にはさしたる島がなくて不便そうだがも力強い安定した環流がながれている。そうした条件がそれぞれあればこそ、九州北部と島根県の海岸部分に、日本初の出雲王朝が産まれたのである。力をつけてきた倭国は、大船団を投じて古王朝である出雲を襲って、出雲王朝の領地と出雲王朝が持つ、王の王とした立場(神無月の存在。出雲では、神在月という。徳川次代の参勤交代を思わす、毎年の朝貢)を奪う。これが「出雲の国譲り神話」の実態であった。倭国が出雲を領有するにあたって出雲王家との間には、一つの協定が成立する。つまり世々、比べものない天に至るかのような大社を維持し、王であった大国主を祀るという(王家の者が神官となるという暗黙の了解もある)ことである。
新羅の急速な勃興は日本列島における大和王朝の勃興に似ていると思う。きわめて小さな王国であった大和国は、鉄製の武具や農具、農耕技術、騎馬、漢字という百済の文化を引き継ぐ倭国の分流であったから、発展は急速なものであった。新羅が自称する長い伝統が新羅にはないのと同様に近畿に成立した大和国にも歴史がなかった。それゆえにこそ、古大和王朝は壮大な前方後円墳を築き(その墳墓は恐らく雄略、武烈、継体にからむものであろう)、王朝の権威を見せつける必要性があったのである。数多くの壮大な墳墓が近畿に集中しているのはそのためなのだ。
何度も王家が騒乱の中でつぶれ一応の平安が成立したのが継体王の時であって、群小の王家から、強大な王家にまとめあげたのはたかだか百年間にみたないものであったと思われる。後日、大和の王家は、紀元前に及ぶ倭国の長い歴史を盗み取り、「日本書紀」によって自国の歴史としてしまうのである。