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67 仁徳天皇陵の事

 西暦500年になる頃の日本列島の政治状況は九州から関東北部、新潟あたりまで群勇割拠という様子でそれぞれ数知れない小王国が大王家の信任という形で大王の名入り剣、銅鏡を証として、地方を支配していたことが浮かび上がってくる。近畿周辺には数多くの巨大な前方後円墳があるが、これをもってして、この地が日本列島の中心地とすることはできない。当時の日本列島は南の中心と北の中心との二極に分かれた政治支配の構造であったと思われる。全体としては全国は南の倭国(旧天皇家)が握っているが北の中心としては倭国の親族王家が支配しているという形ではないだろうか。この北の近畿の王家が乱れ、多年の動乱の末にオオドノ王が支配を完了した時が西暦500年の頃であった。

 かっては仁徳天皇陵と云われた敷地面積では世界最大というこの陵は450年頃つまり五世紀半ばごろ築かれたいうが、450年は争乱が始まる前であったのだろうか。全長500㍍にも達するこの仁徳天皇陵(現在は大仙古墳と呼ばれている。大仙稜古墳という呼び方もあるが「稜」という名をつけると、その言葉に天皇の墳墓という意味があるので、葬られている人物が、どのような人物か不明なので、その言葉は使えない)に、富を消費してしまったので、さしも強力な王朝も傾いてしまったのだ。いずれにしても大騒乱のさなかに、巨大古墳は作れない。筆者としては継体王の王墓としたい所だが、なかなか、そういう訳にはいかないと思う。実は継体大王こそは、この巨大墳墓を必要としそうな王であるように思われる。つまり急ごしらえの新大和王朝を壮麗な権威で飾るにふさわしい物は、神に結びついた神話と気高い由緒の物語「古事記」「日本書紀」の原典「日本古記・日本紀」と巨大な墳墓「大仙古墳」に他ならないと思える。

 

 

 






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