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64 武寧王

 百済の東城王が軍師の白加はくかに殺された後、白加が誰によってか判らないが、鎮圧される。鎮圧したのは恐らく武寧王を擁立しようとする百済の臣と倭軍の混成部隊であったのだと考えられる。

 筑紫海上の加羅かから島で生まれたから嶋王といみな(貴人の本名を呼ぶことははばかれた。それでいむ名と言われる)がつけられたがおくりな(帝王などの貴人の死後に、王の業績などに基づいてつける尊称)は武寧王とよばれた。

 書紀によれば武寧王の誕生の事情は以下のようである。


 蓋鹵かむろ王は弟の昆支こんきに告げて言った。「汝は日本に行って、天皇に使えなさい」昆支は答えて言った。「王の命と違うことは出来ません。お願いが出来るなら、王妻の一人を頂いて、そののちに派遣させて下さい」

 王は孕んだ妻を昆支に嫁として与えて言った。「私の孕んだ妻は、すでに産月になろうとしている。もし旅路の途中で生まれてしまったら、その女と子供を同じ船に乗せて、到着したところから船で送り返して欲しい」

 昆支は王と別れて日本に向かった。


 六月一日 孕んだ女は王の言葉のように、筑紫の各羅島で子を産んだ。それによってこの子を名付けて嶋君しまきみといった。そして王の言葉通りに百済に送った。百済の人々は、この島を主嶋(王島)と呼んだという。

 七月に昆支は平城京に入った。すでに五人の子がいたという。(なんとも不思議な話しである!筆者記)

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