63 百済末多王(東城王)の治世
こうして、筑紫、倭国の軍勢に守られながら百済に戻った末多王(後の贈り名が東城王であるから、この文中では末多王と表記する)は、三斤王を暗殺した解仇と闘った真老を一等官に任命して、百済軍の総司令官とした。
たびたび侵略をくり返す高句麗の長寿王が活発に中国の北朝、南朝と親和政策を取るのに対抗して、百済は南斉に朝貢して、肩書きを得ようとするが、あまり良い効果がなかった。一方で、新羅と融和するために使者を派遣する。493年にはその功が実って、新羅から高官の娘が嫁いで来た。494年には高句麗が新羅を攻めたところに救援を送り高句麗兵を退けた。それでいながら、新羅に対して油断をせず、新羅方面に城を築きもする。
このように百済復権のために努力した末多王であったが、在位の晩年には大干ばつ(499年)に対しての無策と王宮の贅沢が庶民の感情を荒立てることになり(前記した)ついには高級武官の白加の刺客に刺され(501年)死去した。
新羅に、百済が近づく政策は恐らく、加耶における既得権益を守りたい倭国の意向を無視したものであったから(新羅の土地は元々は倭国発祥の地であったから、新羅にその海岸地帯を取られたという思いは倭国の基本感情であった。新羅と倭国は相容れない仲なのである。新羅は新羅本紀に書くほど永い歴史を持つ国ではない。元は加耶の一国であったと推測できる)、末多王の治世の間は、百済と倭国の仲は余り良いものではなかったと推測できる。しかし、百済のこの独自の自立した国の運営は、倭国の植民地となりはてていた百済王にかなりの富をもたらしたのであるが、不運なことに499年にはじまる飢饉は王の治世の評価を著しく下げるものとなったのである。最期にはクーデターのような事で殺されるはめとなったのは、悲惨なことだった。
高級武官の白加には対抗勢力もあり、これを機と捕らえた倭国は、倭国に人質となっていた血筋の王子を、(ここのところが曖昧である。新王は人質に連れて来られた、末多王の親族の王子であり、しかも末多王の子を孕んだ妾を、王子の妻としてつけ筑紫に送ったという逸話は、まことに嘘くさい話で、さらに、そのが妾が臨月まじかで、「子が生まれたら、百済に送って寄こせ」と王が言ったというのは、まさにふざけた話ではあるまいか。