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62 百済 嶋王(武寧王)の事

 もう少し、百済嶋王(武寧王)について書こうと思う。武寧王は韓国語でムリョンワンと発音する。西暦462年に誕生し西暦523年に亡くなる。前代の東城王が501年に暗殺される。武寧王が百済王家と繋がりはあるらしいが、今に伝わる「三国史記」「日本書記」日本書紀に引用されている「百済新撰」、それぞれ、バラバラの書き方で、ようするに、武寧王が前代の東城王とうじょうおうとどのような血筋であるのか不明である。


 東城王(末多王)が即位する事情は、「日本書紀」、雄略天皇二十三年(479年)四月の条に書かれている。・・・ところで、その前記に浦島伝説が書かれていることは奇妙だ!つまりこうである。「雄略二十二年七月丹波の国の端江浦嶋子みずのえのうらしまのこ船に乗りて釣りをしていた。そして遂に大亀を捕らえてしまった。亀は捕らえられると、たちまち女になった。それで浦嶋子は、それを妻とした。二人は相伴って海に入っていった。そして遂に蓬莱山とこよのくに(東の大海底にあるという仙境)に至った。・・・詳しくは別巻のものがたり中に詳しい」)


 そして、つぎに雄略二十三年四月の期日が記入され東城王の話が書かれているのである。「百済文斤王(もんこんおう)が急死した。その時、日本に人質となっている百済の昆支王こんきおうとその五子がいた。第二子の末多王またおうが幼年であるのに聡明なので天王〔書紀原文である〕(雄略)は内裏に呼んで、天王みずから、末多王の頭をなで、ねんごろに言葉をかけて、百済の王とさせよう。よって武器を与え、あわせて筑紫の国の軍士五百人を遣わして、護衛して、百済の国に送らせると言った。これが、東城王なのである。この年は百済の国よりの貢ぎ物が例年より多かった。筑紫の臣たちは軍船を率いて高句麗を撃った。


 書紀の記述がどれだけ真実を語っているかは全く不明であるから書紀にはそう書いている、というに留めたい。百済を援護する兵は常に筑紫の兵であるところに、この話が、もとは倭国王朝と百済の話であった痕跡を留めていると考えても良いのではないだろうか。前にも書いたが、書紀編集者は、わざわざ、百済と関わった軍事力が筑紫のものである事を述べている。書紀が、目的を成就させるためであるならば

大和から兵を送ったと書くべき所を、全て筑紫の兵力と書くのは、九州を中心とした倭国の存在を後世に伝える暗号としか考えられないのである。

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