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61 武寧王、倭国、出雲、和国

 武寧王は王墓の墓誌石によると在位二十三年に六十二才で死去したという。生誕は461年と言うことで、書紀の記事とあっている。書紀によれば501年39歳の時王として即位するために百済に倭国から戻った様な事が書いてある。どうも武寧王の血筋が錯綜としているのである。しかしここでは、そのことに余りこだわるまいと思う。なにしろ1500年前の出来事である。武寧王の事を伝える「百済新撰」は失われていて、書紀にその記事が転載れているのみであるからだ。

 ともかく、武寧王は百済の王家の血筋であったと言うことだが、ここには継体王の事情と良く似た状況が見えると思う。百済の状況が悪化して、その配下の将軍が百済を乗っ取った。百済国内に王位争いの騒乱が渦巻き、その末に、【王統に繋がる】ということで倭国から王子がやって来て王となったという事で

、しかも倭国で生まれたというその王子はすでに三十九才になっていた!ここには、百済王族の血統の途絶えさえ思わせるものがある。それ故、武寧王の出自が霧に包まれていると言うことではないだろうか。


 武寧王の即位は、当然倭国、磐井王の援軍をもってできた事だ。倭国と伽耶の連合軍は百済国内に斯麻王(武寧王)を押し立てて進軍し、百済の新王として武寧王を即位させた。伽耶と連携の取れた武寧王は、これ以降高句麗の侵略を許すどころか、進んで攻め高句麗を追い上げ始めた。やっと余裕の出来てきた倭は新羅を海岸から責め立て、新羅に伽耶、百済進入の機会と余裕を与えなかった。


 韓地での諸戦の成功は、倭国内の志気高揚にめざましい効用を及ぼした。戦利品や交易や農産物、海産物が倭国を着実に潤した。以前から課題であった近畿圏の制圧も磐井の頭に上るようになってきた。

 オオドの王というものが、どうやら近畿の諸国を束ね始めたようだ。オオド王の大和国は、十年前から

倭国に朝貢をするようになった。倭国から見れば近畿の騒乱は、近畿の王国の崩壊と再生にしか過ぎない。倭国は各地域の王国の上に立つ王国だ、関東にも、駿河にも信州にも越にも出雲にも瀬戸にも四国にも王国は四世紀には成立していたであろう事は推測できる。それらの王国の上にそびえ建っていたのが出雲の国であった。しかしながら筑紫を中心とする倭国はやがて出雲をしのぐ力を持つようになった。倭国はやがて出雲を侵略する。倭国は諸王国の王の王となったのだ。近畿の和国の騒乱は倭国から見れば単なる地域のもめ事に過ぎない。今や倭国はかっての出雲なのである。かっては諸王国は出雲に朝貢していたが、今は倭国がその特権を握っているのである。

 


 

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