60 嶋王と加唐島
武寧王の事をもっと追究してみたい。ここに磐井の反乱についての重大なヒントが隠されているように筆者は思うからだ。まずは日本書紀、武烈帝の条の書紀原文を書いてみよう。前記したように、武烈帝の悪行を列記したさなかに、武寧王の記事が現れる。
百済新選云末多王無道暴虐百姓国人共除武寧王立諱斯麻王是琨支王子之子則末多王異母兄也琨支向倭時至筑紫嶋生斯麻王自嶋還送不至於京産於嶋故因名焉今各羅海中有主嶋王所産嶋故百済人号為主嶋今案嶋王是蓋鹵王之子也末多王是琨支王之子也此曰異母兄未詳也
訳 百済新選に云わく末多王無道で百姓に暴虐である国の人は協力して除いた武寧王立つ諱(本名、生存中は敬して使用が避けられる。筆者註)斯麻王は末多王の異母兄の琨支王子の子である。 琨支が倭に向かい筑紫に至るとき欺麻王が生まれた。(生まれそうになったら戻ってこいと云われていたので。著者註)筑紫より返し送ったが百済の京に至らずに筑紫近くの嶋で産れてしまったのだ。それゆえ嶋と名づけた。今各羅の海の中に主嶋という嶋が有るが王が生まれた嶋なので百済人は主嶋(にむりは国王という意味がある。つまり国王島という意味)と呼んでいるのだ。ところで今考えるに嶋王は蓋鹵王の子であり、末多王は琨支王の子である。それであるのに異母兄というののは詳しくわからないことである。
三国史記によれば21代蓋鹵王22代息子の文周王23代その息子の三斤王と続き、そこでその血筋から文周王の兄弟である琨支の、その息子、24代東城王に王位が移り、25代にその息子武寧王と王位が繋がっている。上記の書紀の記録は、失われた「百済新撰」によるもので有るから何百年も後に意図を持って編まれた、三国史記とは内容が変わってしまっているかも知れない。鎌倉時代あたりに編まれた三国史記よ
りも日本書紀の方が少なくとも三百年は古いだろう。まして「百済新撰」は書紀よりもっと古い資料であり確実性で言えば、この方が上だ。その「百済新撰」の記事を疑う、何らかの史書が大和王朝に有ったと言うことを、書紀は示している。
しかし、書紀の成立の200年前の出来事が大和朝に不明だというのは、王朝の歴史の浅さを自ら暴露しているように思える。このようなどうでも良い事を不詳だとわざわざ述べるのは、自らの王朝の歴史の浅さを、書紀制作者が伝えたかったからだと言っては言い過ぎだろうか。