6 磐井以前の歴史
470年 八年前の462年に続き南朝(中国、宋のこと。中国はこの当時国が南北に分かれていた。北方は魏が支配していた。700年後の鎌倉時代の宋とは異なる。宋は魏との対立に苦しみ、孝武帝453-464年の奢侈にともなって瞬く間に国勢が衰えた。孝武帝亡き後、皇帝血族のすさまじい血で血を洗う権力闘争もあって衰運の続くこの国は朝鮮半島、根本部分に勢力を得ている高句麗にも侵略される有様であったので、高句麗と対立する倭国に使者をよこしたのだと推察される)が使者をよこした。
474年 高句麗は宋の衰退を背景として長寿王の下、百済侵略に発進する。百済の都である漢山を攻め落とし、百済王を捕らえて惨殺したという。家臣は都を熊津に移した。 476年 倭国は高句麗と同盟を組む新羅にしばしば出兵する。(韓地内の倭国領地からと推測する)
新羅は東海岸からの倭国本土からの侵略に備え二つの城を築いた。 477年 倭国は宋に使者を送った。一方新羅に向けてかってない膨大な兵を韓地内はもとより本土から出兵させた。しかし新羅を落とす事はできなかった。 479年 倭国は新羅の同盟軍である高句麗に向けて船団を発進させる。しかし高句麗軍と対峙したままで終わり、倭国が守る百済の防衛に止まった。倭国は兵力の不足に直面し本土から蝦夷人500人を渡海させようとしたが北方から吉備の国につれて来られたところで反乱を起こし逃亡した。
482年 倭国新羅に出兵する。(本土からであるか韓地からであるかは不明)
486年 再び新羅に出兵する。(本土からであるか韓地からであるかは不明)新羅は臨海、長峯の二城を造った。
497年 倭国の兵が新羅の国境を襲った。(韓地内部からであろうと推測する}
500年 倭国は新羅東岸の山の上に建つ長峯城を攻め落とした。
512年 倭国は百済の力を回復するために倭国韓地内の領地である任那を百済に譲った。