54 倭国 新羅、百済に大軍船団発進
西暦500年 倭国が玄海から水軍を出して海岸から新羅をおそった頃、近畿では騒乱の最中にあった。継体王は大和周辺のあちこちで兵を陽動させて弱体化した前方後円墳を権威とする旧大和王朝を責め立てていた。かっては、旧王朝を盛り上げていた周辺の王国も今や旧大和王朝を見捨てんばかりの状況となっていた。
韓地では倭国と長らく姻戚関係を結んで、倭国の下臣となっている百済と加耶が勢力を増す新羅と高句麗に侵略されつつあった。(一方で高句麗と新羅は互いを侵略しあうようになってきた。新羅の国力は高句麗の軍力を必要としなくなったのだ、高句麗の軍は力の弱い百済のみに向けられるようになった)新羅に狙われた新羅と国境を接する加耶の中心国、金冠加羅は風前の灯と言って良かった。
499年には新羅の侵略を恐れた加耶から新羅に白い雉がおくられた。百済も金冠加羅も、度重なる戦乱と折からの飢饉で国内の疲弊は眼を覆うものがあり、百済では人を襲って人肉を食べる野盗が横行するありさまであった。しかしながら百済王は国運衰微のなか10㍍の高さがある豪壮な別荘を渓流を望む景勝地に建て、庭園と池を造成し、珍奇な鳥を集め、しばしば大宴会をくりかえした。それであるのに救済のために国の蔵を開くこともなかったから国の人々の憎悪の的となった。
500年には倭国から援軍が続々とやって来た。倭国は、近畿の大戦乱を機と捕らえて多数の軍船を発進させたのだ。三月に新羅の海岸線の長峯城がついに落とされた。
501年倭国は倭国で育った倭国王の孫である武寧王を送る大船団をしたて百済に向け発進させた。百済で憎悪の的となっている王が殺戮され、臣下が百済を我が物とした。この臣を打ち、あわせて百済を侵略する高句麗と闘うためなのである。