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53 継体大王

 以下は書紀が書くところの継体大王の記録である。

継体王元年(507年)三月五日 に継体王と仁賢にんけん大王の皇女で、母が雄略大王の皇女(その弟が武烈大王である)の手白香王女と婚姻した。即位したこの年には継体大王は五十才にはなっていたようである。即位する前に地方の王として妻を多く持っていたという。しかし、大和の血筋を大事にして手白香皇女を正室に据えたのである。

 

 やがて継体王と手白香てしらか皇女との間に男の子が生まれた。天国排開広庭尊あめくにおしはらきひろにわの王(欽明きんめい大王)という。

 この男子が王となるのは前妻の子である二人の兄が天下を治めた後の事である。

 三月十四日 八人の妃を召し入れた。(以前からの妻を改めて大王の妻として認めたという。筆者)

    (中略、主として妃と生まれた子供の記)

 継体二年(508年)十月三日 武烈王を葬った。

 継体三年(509年)二月 使いを百済に遣わす 百済本記に言うには久羅麻致支称くらまちきみ日本より来たると。(和国の知らない人物をわざわざ百済本記から引きずり出してきて暗に、列島内の他国の存在をあからさまにしようとする意図がみえる。列島内の他国とはもちろん倭国のことである。事あるごとに書記に書記編者は倭国が存在していたことをほのめかす)

 このようなことが書いてあるのは何故なのか未だに良く判らないことだ。(筆者註 百済本記には509年に日本より来ると言う文はなく、書紀の創作である。この文は、古事記以前にあったと言われる古文書から引用したかと推測する)

 (大和朝廷は)任那の日本の県邑にいる逃亡して逃げ込んだり浮浪しているものを三代にもわたって調べ上げ百済に送り返した。

 継体五年(511年)十月都を山背やましろの筒城に移した。






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