52 継体王と無縁である画像鏡
隅田八幡神社の人物画像鏡が偽作でない限りは、百済王朝と継体王の深い関係を示す証拠と思えたが、答えは違う方向からやって来た。すっかり忘れてしまっていて、本箱に並べている「失われた九州王朝」朝日文庫 古田武彦著に画像鏡についての良い考察が見つけられた。
49章では画像鏡に書かれた本文を書かず、筆者の訳文のみを記したが、訳文はいささか間違っていたようだ。読者の皆さんは、筆者にだまされてしまったわけだ!・・・ま、冗談はともかくとして、原文を書き、ふさわしい訳文を示そうと思う。
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿(泰?)遣開中費直穢人今州利二人取白上同二 百旱作此銅竟 (註 寿は泰の左文字(左右が入れ替わった文字)にも見える)
訳
癸未の年八月 日十大王その名、年と男弟王(弟王)が意柴沙加宮(不詳、筑紫と推定)におられるとき 斯麻(武寧王)は長寿を念じ 開中費直と穢人(朝鮮北部の一民族、高句麗、百済の扶余族と近親の族であるという)今州利二人を取り上白銅二百旱でこの銅鏡を作った。
こうした内容であるから、画像鏡は百済と倭国の濃い関係をけっして否定するものではないのだ。従来考えられているように、百済と近畿和国の親密さを証明しているものでもないのだ。むしろ、いかに倭国が百済と強く結ばれているかを示す物証なのである。
銅鏡に登場する大王、年はかの讃、珍、済、興、武 という 一時名の倭の五王の血を引く、王であることは言うまでもない。